どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

母さんの予言

「あなたが大きくなったとき、男の人に、わたしはあのことを知ってるわよ、と言っておやりなさい。みんなかならずぎくりとすることでしょう。これが母さんの予言よ。」

(『銀河英雄伝説田中芳樹先生より)

噂や流言飛語という類のものが一定の効果を持つという解りやすい例だ。ただ、ここで忘れないで欲しいのは男女の関係性だ。ここでは女性の方が社会的に弱者であるという前提に基づいて成り立っている。(もっとも昨今ではそう簡単に女性の方が社会的に男性よりも弱い立場にあるとは言えないと思うが・・・)もしこの男女を逆転するとどうなるかというと

「あなたが大きくなったとき、女の人に、俺はあのことを知ってるよ、と言っておやりなさい。みんなかならずぎくりとすることでしょう。これが母さんの予言よ。」

となり、やはりどこかに違和感が生じる。何が言いたいかというと、噂や流言飛語というたぐいのものは本来、社会的弱者が権力者をけん制する時の武器なわけで、社会的強者や権力者が用いた場合、それは≪弾圧≫に他ならないという事。そのことを踏まえたうえで、権力者と言われる存在がこういった、本来用いるべきでない卑劣な手段を使わざるを得ない場合がある。それを使う事が公共の福祉に合致する場合である。ただし、勿論、そのような手段は使わないに越したことはない。いわば秘中の秘、最後の切り札であるべきだ。であるにもかかわらず、この手段を権力者サイドがくり返し用いた場合、社会にとって以下のようなデメリットが生じる。

①  人心を委縮させてしまう。

②  手段が自己目的化してしまう。

③  結果的に権力者サイドの権威の低下を招いてしまう。

解説する。①に関しては今更解説する必要もないと思われる。②に関しては以前 自己目的化 で述べた。③に関してだが、まさに大切なのがここだ。このような卑劣な手段を繰り返し用いることで結果的に権力者は自己の正当性を自身で否定し、貶めている。また、本来おおやけの利益に結び付く為に用いた非常の手段であるはずが結果的に権力者個人の感情論のレベルにまで事態を埋没させてしまっている。出るとこに出て正々堂々とやりましょうよ!と言われればそれまでである。

 さて、私は名も無い障がい者で、家族は高齢の両親がいるだけ、配偶者は無論、ましてや恋人もいない、しがない中年男性だ。低所得者と言われる層に属し、社会保障制度のおかげで食べていける、いわゆる社会的弱者の一人だ。職場の方々に良くしてもらっているおかげで、何とか一日一日を過ごしている。そんな、かよわい存在だ。そんなかよわい存在の私に何か御用の方がいらっしゃいましたら、いつでもどうぞ、なんでもお答えします。ただし正々堂々とね!

 

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「あなたが大きくなったとき、男の人に、私はあのことを知ってるわよ、と言っておやりなさい。みんなかならずぎくりとすることでしょう。これが母さんの予言よ。」

 

ありがとう

先日、NHKのsongsという音楽番組で井上陽水さんを2週連続で特集していた。それを見ていてすっかり井上陽水さんのファンになってしまった。斜に構えていて、コメントが人を食っていて、それでいて自嘲的で、本心は半ば韜晦されていて、多分相当にシャイな方なのだろう。だがそのシャイな井上さんが歌をうたう時は本気になる。本心をさらけ出す。だからこそ人の心を打つ。そこに惹かれる。「氷の世界」「傘がない」等々名曲をあげればきりがないが私の中では今「ありがとう」(奥田民生さんとの共作)がヘビーローテーションで流れている。以下に歌詞を記す。

 

ありがとう ありがとう 感謝しよう

 

微笑んでくれて どうも ありがとう

プレゼントくれて どうも ありがとう

楽しんでくれて どうも ありがとう

 

手を振ってくれて いつも ありがとう

気づかってくれて 本当に ありがとう

つながってくれて 毎度 ありがとう

 

強い人 弱い人

男の人 女の人

目立つ人 地味な人

みんな みんな ありがとう Yeah

 

ありがとう ありがとう 感謝して

 

連れてってくれて たまに ありがとう

重なってくれて 実に ありがとう

弾き飛んでくれて 今日は ありがとう

 

付き合ってくれて どうも ありがとう

うまく誤魔化してくれて どうも ありがとう

笑い飛ばしてくれて どうも ありがとう

 

近い人 遠い人

やさしい人 つめたい人

好きな人 イヤな人

みんな みんな ありがとう yeah!

 

ありがとう ありがとう 感謝して

感謝しよう ありがとう

 

作詞:井上陽水奥田民生

作曲:井上陽水奥田民生

 

「ありがとう」と感謝するからには相応に自身の現状に満ち足りているはずだ。以前、漫画『会長 島耕作』(弘兼憲史著 講談社)の中で初芝電産の会長に上り詰めた島耕作が「この年になるとみんなに幸せになって欲しい。」と述べていたが、それは良く解る話だ。私生活はともかく公的には島耕作は間違いなくいわゆる「成功者」だ。それに対し私は家庭もなく、ましてや恋人すらいない、年収は同年代の平均を大きく下回る冴えない中年に過ぎない。それがどうしてこの曲に共感するのか?自分でもわからない。ただ一つにはこのエッセイが関係しているのは確かだ。自らの思うところを自らの言葉で述べる。そしてそれを読んでくれる方、共感してくれる方がいる。多いときで月間に300以上のアクセス数がある。そこで承認欲求と自己実現がなされているのは確かだ。お金に結び付くかどうかは今後次第だがまあそれは良い。とにかく自分が好きなことをやってそれがある一定の評価を得ているのだ。こんなに有難いことはない。今ワードで打ち込んだのだが「ありがたい」を変換すると「有難い」になる。そう、めったにない事なのだ。職場で良くしてくれる上司がいる事も、タバコに誘ってくれる人がいる事も、飲みに誘ってくれる人がいる事も、みんなめったにない事なのだ。それを思うと「有難いな」と自然に感謝の念がわいてくる。そう「ありがとう」だ。幸せのカタチは人それぞれだが、どうやら私は私でそれなりに幸せであるらしい。島耕作ではありませんが、私にかかわりのある方々皆さんの幸せを願っております。ありがとう。

(平成最後になります。 長谷川 漣)

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井上陽水さん、かっこいいです!

 

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人生最大の・・・

以前にも書いたが私は昔、神奈川の私立女子校に世界史の教員として勤めていた。その学校では今はどうだか知らないが、私のいた当時は男性教員の7から8割りは生徒と結婚していた。こう聞くと教師の側がそう誘導したかのように思われるかもしれないが、多くの場合、事実はその逆だ。一般企業に勤めて解ったのだが、我々社員は大人として適度な距離感をもってお互いに接している。それはそうだ。業務が円滑に進むように上下間、同僚間の適度な距離感が必要不可欠だ。それが、学校では違う。生徒は半分子供で自由である分、平気でその距離を縮めてくる。いわば、大人として自分の周りに張り巡らしている心理的障壁を軽々と蹴破ってくる。良くも悪くもだ。であるからにはそこで両者が心理的に近しい関係になるのは致し方ないことかもしれない。結果、男性教師の大方は生徒と結婚するという構造になる。もっとも例外はあるだろうが・・・。さてこんな私にもというべきかそれなりの出会いはあった。ある日職員室で23年上の女性教師と仕事の話をしていたところ、ある生徒が戸口からはハセガワ先生、ハセガワ先生と手招きをする。のこのこと出ていったところ、それまで話していた女性教師が「何の話してんの?」と咎めるように聞いてきた。するとその生徒は周り中に聞こえる声で「恋ばな~。」と答えた。女の争いに教師も生徒もない。「仁義ね~な。」と思ったのをよく覚えている。その生徒は「私のおならジャスミンの香りでしょ。」と平然と豪語する子で、いわゆる美人ではなかったが、愛嬌のある顔立ちと抜群のユーモアがあって、結局私の心はその子にもってかれてしまった。ビニール傘を渡してこれで何かボケてご覧とお題を出すと、すかさず「でかすぎる耳かき」と答えるような子だった。他の誰かにとってどうだったかは知らないが、少なくとも私にとっては1学年400人が3学年で1200人、その千人以上の中でもっともフィットする生徒だった。いろいろあって結果的に私が精神に失調をきたしたこともあり、結局その子とは物別れに終わった。今にして思えば何度も機会はあったのに、当時仕事で精いっぱいだった私はその子を受け止める余裕がなかった。今までの人生において大概の事は(その学校での職を辞したことも)仕方ないで笑って済ませられるが、その子を失った事だけは悔やんでも悔やみきれない。人生最大の失敗だった。ただ、宇多田ヒカルさんの楽曲『花束を君に』の歌詞に「毎日の 人知れぬ苦労や淋しみも無く ただ 楽しい事 ばかりだったら 愛なんて 知らずに済んだのにな♪」とあるように、その子を失って初めて愛ってこういうものかと解ったのも事実だ。なんでもそうだが無くしてみて初めてそのありがたみに気づくというのは古今東西一緒なのかもしれない。10年以上たって風の噂に聞いたところその子は無事?結婚して幸せに暮らしているとの事。私にとってその子が特別だったようにその子にとって私が特別であって欲しいと思っていたが、そんなに現実は甘くない。私がいなくなればなったで別の人に別の魅力を見出す。それが「相対化」という事だ。それが解るくらいには私は大人になった。さて、この文章にどう落ちをつけようかと考えながら書いてきたのだが、どうにもこうにも落ちがつかない。ただ以前「なんで、結婚しないの?」と聞いてきた現在小学6年の甥っ子にはいつか、そう、もう5年もしたらこの文章を読ませてやろうと思う。「本当に好きなもの必要なものが何かわかったらそいつは絶対に手放しちゃいけない。」と添えて。

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名曲です。

 

公務で・・・

「公務で人殺しをやるところまで、まだ、おれたちは墜ちちゃいませんよ。」

(『銀河英雄伝説外伝3田中芳樹より)

十代の頃、むさぼるように読んだ『銀河英雄伝説』の外伝3の一節だ。他にも

「なるほど、言論の自由は思想の自由よりテリトリーが狭いというわけですか。自由惑星同盟の自由とは、どちらに由来するのですかな。」(同じく『銀河英雄伝説』より)等々この小説を十代のころ読んでおいて、本当によかった。私の血肉となっている。

 さて、私の文章を継続して読んでくださっている方々はご承知と思うが、私は決して頭が良い方ではない。むしろその逆だ。ただ頭が悪いなりに自分の頭で考えて文章を書いてきたという自負はある。言葉の裏を返せば「この人、頭はいいのに自分の頭で考えてないな」という人に出会う事があるのも事実だ。では、頭の良くない私がどうして自分の頭で物事を考えられるのか?答えは簡単だ「自分に自信を持っているからだ」言い換えれば「自分が好きだからだ。」勘違いしてもらっては困るが私は決してナルシストではない。いや、ちょっとだけナルシストかも。まあそれはいい。では、自分を好きってどういうことなのか?その解りやすい例がこの文章の冒頭の「公務で人殺しをやるところまで、まだ、おれたちは墜ちちゃいませんよ。」にある。(このセリフまでの文脈を知りたい方は是非本書を読んでみてください。)無論、私が人殺しをするわけではない。言い換えるなら「公務や損得で人を好き嫌いになるところまで、まだ、俺は墜ちちゃいませんよ。」と言ったところか。話は移るが、もう10年以上昔、ベトナムに旅行した際、ホテルから25キロほど離れた農村部で一人っきりになりたくてガイドと友人を乗せた車から降りたことがある。異国の地で一人きりになった私は近くの農村を歩き回ってバイクのある家を探し、そこで見つけた暇そうな青年に「こんだけお金やるからバイクで○○ホテルまで乗せてってくれ。」とベトナム語で頼んだ。その青年は気持ちよくバイクの後ろにのっけてホテルまで無事とどけてくれた。お礼を言って当初の金額より多めに渡そうとするとその青年は「俺はあんたとこの金額で送り届けてやると約束したんだ。だからこれだけでいい。」と言って約束の金額しか受け取らなかった。「おーベトナムの人って誇りたけーんだな。さすが!」と感心したのを覚えている。大切なのはここだ。そのベトナム人の青年はどう見てもビンボーそうななりをしていて、前歯は抜けていたが、少なくとも自分の事が好きだったはずだ。自分に自信を持っていたはずだ。というか、そういう小さなことの積み重ねが自分に自分を好きでいさせるのだ。と思う。よきオノコだった。私もこのベトナム人の青年と同じだ。日々の小さなつまらないことの積み重ねが自分を好きでいさせるのだと思う。そしてそれが自信につながっていくのだと。何も美しく生きろとか、清貧を尊べとかいうのではない。ただ私が自分自身を好きなように、自分自身を好きな人、自分自身に誇りを持っている人と仲良くなりたいと思うのは確かだ。一方で、同じく田中芳樹先生の『タイタニア』にこうある。「たとえ500年の長寿をえても、この男と知己になることはありえない。その事実を、ファン・ヒューリックは悟っていた。首輪をつけられ、鎖につながれることを喜ぶ手合いと、彼は絶対に仲良くなれなかった。その気質が、結局のところ彼の人生を左右し歴史に影響を与えることになった。」そうなのだ。誰とでも仲良くなるというのは、裏返せばだれとも仲良くない事とニアリーイコールだ。でもそれでいいと思う。味方になってくれるのはいつだって少数だ。その小数が自分の宝物だと思う。

さて、この文章をお読みになった皆さんは自分のこと好きですか?純金積み立てではないですが自分を好きになるのもコツコツですよ◎

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なるほど、言論の自由は思想の自由よりテリトリーが狭いというわけですか。自由惑星同盟の自由とは、どちらに由来するのですかな。

 

 

シンクロ

419日の「川崎フロンターレ」対「湘南ベルマーレ」戦で、川崎の選手が蹴ったダイレクトパスを別の選手が胸で落として、3人目の選手がこれまたダイレクトでシュート、ループ気味にゴールへ入るという場面があった。「感じているな」と思わずうなってしまった。ほんのコンマ何秒かの時間内に3人の選手がお互いの意思を疎通し合ってゴールが生まれている。決して言葉で示し合わせたわけではない。そんな暇はない。しいて言うならアイコンタクトがあったかもしれないが、そうも見えなかった。一瞬のうちに3人の選手が同じイメージを描きそれを共有(感じている)しているのだ。サッカーの醍醐味の1つはこういうプレイを見ることにあると私は思う。

話は飛ぶが『海獣の子供①~⑤』(五十嵐大介小学館)という漫画がある。最近読んだものの中で12に面白かった作品だ。この漫画の中で、鯨が重要なモチーフとして扱われている。

~鯨の脳皮質は人間よりはるかに大きく発達しており、体の機能は使われるから発達するという前提に基づくなら、鯨は考えているという事になる。天敵もなく殺し合いもない鯨はきっと人間とは違う発想をするはずだ。そして人類よりはるかに古い歴史を持っている。彼らは「ソング」と言われる歌をうたう事で何キロも離れた仲間同士でコミュニケイトしている。水の中では音は空気中よりずっと遠くまで伝わるのだ。鯨の歌はとても複雑な情報の波であり、見た風景や感情をそのままの形で伝えあって共有し合っているのかもしれない。言語によらずに。言語は性能の悪い受像機のようなもので、世界の姿を粗すぎたり、ゆがめたり、ぼやかして見えにくくしてしまう。“言語で考える”ということは決められた型に無理に押し込めて、はみ出した部分は捨ててしまうという事だ。鯨の歌の方がずっと豊かに世界を表現している。こういった彼ら特有のコミュニケーション能力を考えると鯨は非常に高度な知の体系を創り出しているかもしれない。~(以上本文より抜粋、順序を改変、表現を若干変更)

で、私は思うのだ。人間だってその昔は海の中にいたわけで、鯨の持つ能力を何処かに多かれ少なかれ残しているのではないかと。もしかするとそれを第6感というのかもしれないし、テレパシーなどと言うのかもしれない。それが強い人もいれば、そうでない人もいる。ここで話は戻るが、冒頭に述べた川崎フロンターレのゴールシーンではこの「鯨のようなコミュニケーション」(それをここでは便宜的に「シンクロ」と呼ぶ)が、行われていたのではないだろうか?この「シンクロ」率が上がっていく過程がチームとして成熟していく過程なのだと理解すると面白い。3年生が抜けて新チームになって初めかみ合わないのが、徐々にお互いを感じて無意識のうちに意気があって(シンクロ)してくる。それが高校サッカーなどを見る一つの楽しみ方でもある。

このシンクロというテーマは『風の谷のナウシカ』(ワイド版コミック、宮崎駿 徳間書店)の中でも「念話」という表現で使われているし、ファーストガンダム富野由悠季)では「ニュータイプ」という概念で示されている。宇宙に進出した人類が覚醒するという意味で「NEW」なのだが、今まで述べてきた流れからすると人間が本来持っていた能力を再獲得するという意味で、逆に「オールドタイプ」への回帰と言えるのかもしれない。まあ言葉自体はどうでもよいのだが、私が定義するところの「シンクロ」は確かにある。それを実証する研究でもないかなと思った次第だ。(ご存知の方は教えてください。)

海獣の子供』ではこのテーマについて次のように述べてしめくくっている「かつて人間も気高いケダモノであったのだ」と。これはこれで一面の真実を表している。大変興味深いテーマだ。ただ、それは人類が血を流して獲得してきた近代化の歴史を否定するものともとれる。万人の万人に対する闘争から、自然権・人権・個人という概念の獲得、こういった人類史上に残る功績と「気高いケダモノ」という概念は矛盾する。近代的自我に対するアンチテーゼとして読んでみるのは良い。だが今更ケダモノに戻るべきでないのも事実だ。さてこの文章をお読みの皆さんはこのテーマについてどうお考えですか?皆さんは周囲の人と「シンクロ」していますか?この文章自体に「シンクロ」した人は「いいね」してください(笑)。

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非常に深い内容です。2度・3度と読む価値ありです!

 

ツボ

「笑いのツボが違う」という表現がある。要するに笑うべきポイントが違うという事なのだが、どういうことかよく解ったので以下に記したい。

私と親父では笑いのツボが全く違う。その親父と夕食時にサッカーのプリンスリーグについて話をした。プリンスリーグとは日本の高校生(ユース)年代のサッカー大会の一つであり、プレミアリーグに次ぐ2部のリーグである。高校サッカーの強豪校である前橋育英には、関東近辺からクラブチームのユースに昇格できなかった中学生が入学してくる。そして前橋育英の選手としてプリンスリーグで元は自分が所属していたクラブチームのユースと対戦して勝ったり負けたりしている。私は「これは面白い」と思った。自分が昇格できなかったクラブチームと、悪くいえば自分をけったクラブチームと「高校サッカー」という別のカテゴリに所属しながら同一のリーグで勝負をするのだ。ユースからプロへ、また、高校サッカーからプロへと昇格する際にセレクションがあり、そこでさらに、プロの中で切磋琢磨し日本代表に昇り詰める選手がいる。まさに捨てる神あれば拾う神ありで、真剣勝負(自由競争)の中では一般社会に比べ、仕組みそのものが成熟していると感嘆したのだ。そこが私には面白かった点である。それに対し親父は前橋育英のどの選手はどこのクラブチーム出身でどういう特性があるだとか、どの選手は地元の出身でどういうつてで前橋育英に来たかとか、そういういわば個別論に興味をもって面白がっている。「そうか俺が各論を「抽象化」して一般論を語ることに面白みを見出しているのに対し、彼(親父)は各論をより一層「具体化」して個別論を語ることに面白さを見出しているのだ。」その時、親父の事が少しだけ解った気がした。「抽象化」と「具体化」はベクトルで言えば真逆の行為である。ここではどちらが良いとか悪いとか、どちらがより上位にまたは下位に属するとか、そういう事を言っているのではない。ただ親父と私の指向する方向性は真逆で、それが私と親父の笑いのツボの違いにもつながっているのではないかと思った所存だ。この抽象化もしくは具体化の程度の近しい人とは笑いのツボが合うのではないか?そして笑いのツボが近い人といられるのは幸せなことだと思う。あなたのそばにいる人とあなたの笑いのツボは合っていますか?

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♪ほーにょ♪ほにょ、ほにょ、崖の上で放尿♬

私の笑いのツボはこの辺りです(笑)宮崎駿監督ごめんなさいm(__)m

自己目的化もしくは・・・

その昔クイズが異様に流行った時代があった。ご存知の方もいるかもしれないが『アメリカ横断ウルトラクイズ』などはその最たる例だ。私の在学していた高校でも「クイズ研究会」なるものがあり、割と、というか凄く学力の高い連中が入会していた。私はというとそれを内心冷めた目で見ていた。何故なら知識を得ることそれ自体が目的化しており、いわば「知識の為の知識」になってしまっていたからだ。知識とは本来何かを成すために必要となりその都度、体系的に身に着けていくもので、その獲得自体が自己目的化しては元も子もない。これは何もクイズに限ったことではない。本来の役目をどこかに置き忘れ、それ自体が目的化してしまった場合、何か大事なものを履き違えてしまうのではなかろうか?敢えて例外を上げるなら~ingというたぐいのものだ。ジョギング、スイミング、スキーイング等々。これらは自己目的化がマルな例だ。ここではそれらはひとまず置いておく。話は若干飛躍するが、私が恐れるのは、宗教とか、共同体とか、組織などが、その存続それ自体を自己目的化してしまった場合である。宗教にしろ、共同体にしろ、組織にしろ、その目的は内部ではなく外部にあると私は考える。弱者の救済、富の再分配、商品やサービスの提供等々、本来の目的は常に外部にあり、目的が内部化(自己の存続それ自体)してしまった時、そこには不正や腐敗のはびこる余地が必然的に生じてしまうのではないだろうか?田中芳樹先生の小説に『タイタニア』がある。宇宙に進出した人類社会の富と権力と武力を牛耳るタイタニアという一族について書かれたスペースオペラである。ここでは詳細は控えるが興味のある方はご一読をお勧めする。タイタニアが自己の存続・強化それ自体を目的化した結果どの様なよどみが生じるのか?末路をたどるのか?初めて読んだのは高校生の頃だが、今、読み返してみても新たにうなずける部分が多々ある。無論これはフィクションに過ぎないが、ある一面の真実を表している。この話を友人にしてみた所、「だけどそういうのってままある話だぜ。だって天皇制なんてまさにそうじゃん。その存続それ自体が目的化しているいい例じゃん。」との事。私は「いやでも、俺ごときが詮索するのは恐れ多いことだけれど、天皇制は皇族の方々のプライバシーという多大な犠牲の上に成り立っている制度だろ?それって何処かはき違えてねーか?」これに対し友人は「そうだよ!歪んでるよ、その歪みひずみ、お前の言うところの履き違えを受け入れていくことが社会化されるってことじゃないの?」と答えた。私は「う~む」と答えに窮してしまった。元社会科の教師としては情けない話だが仕方ない。

 さて話は戻って、私の今行っていることは先の話で言えばライティングと~ingに分類される行為だ。では書くこと自体が目的化されるかというと「それは違う!」と私は言いたい。読んでくださる人がいて、その方に何らかの形で考えるヒントになって欲しい。そうでなければ紙面の日記をつけていればよいのだ。相手があって初めて存続する意義がある。言い換えれば自己の存続それ自体が目的化してはやはり何か大事なことをはき違えてしまうのではないだろうか?この文章をお読みの皆さんはいかが思われますか?そして、それとは別に、究極の問いとして「生きることそれ自体は自己目的化すべき例だと思いますか?それともそこには何らかの目的が必要と思われますか?」コメントいただければ幸いです。私自身の考えはこの場では差し控えたいと思います。今回は真面目な話です。

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宇宙はタイタニアとともにあり