どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

Forget me not

 

今回はずばり大衆娯楽と文学性の差異について考えてみた。

決して大衆娯楽を馬鹿にしているわけではない。

文学性との絶妙なバランスが必要なのだと思う。

 

そこで「死」というテーマについて

二つの作品を比べてみる。

 

1つは漫画『One piece』(尾田栄一郎先生・集英社)だ。

これについては今更解説するまでも無いだろう。

万人受けする大衆娯楽の最たるものだ。

私も全部読んだことはないが

有名なエピソードはもちろん知っている。

麦藁の一味の「船医」であるチョッパー。

彼が仲間に加わる際のエピソードで

「死」がその重要なテーマとして扱われている。

このエピソードの中で

チョッパーの師であるドクターが名言を残している。

「人は人から忘れ去られた時に死ぬのだ」

その通りだと思う。逆にいえば忘れられない限り

人々の心の中でその人は永遠に生き続ける。

だから人はいつまでも自分の事を忘れないでいてほしいと願う。

忘れられたら寂しい

特に自分にとって大切な人に

 

ごくごく「自然な感情」だ。

だからこそ、このエピソードが多くの人の心に届いたのだろう。

まさに「forget me not」なのだ。 

これぞ王道というべきだろう。

 

これに対して「筋肉少女帯」大槻ケンジ作詞の

「バトル野郎〜100万人の兄貴〜」

カプコンスーパーファミコン用ソフト「ストリートファイターII」のCMソング)

の歌詞が面白い。

この曲の中盤に出てくる

 

「俺が死んでも泣いちゃいけない笑えよ!

ヒュルリラ ヒュルリラ

風に流して忘れろ!」

 

というフレーズ、

One piece』の例と真逆のことを言っている。

しかし何故かこの部分に私は心惹かれる

 

One piece』で語られる感情はもっともなのだ!

誰だって自分の事を忘れてほしくない。

しかし、それを重々承知の上で

「風に流して忘れろ」

というフレーズに心を奪われてしまうのだ。

誰もが感じる最大公約数的な感情を超越したところに

ある種の美学のようなものを感じる。

「かっこいい」のである。

つまりはこれが大衆娯楽と文学性の違いなのではないだろうか?

最大公約数的な感情を突き抜けた

その向こう側にある美学なり哲学なり(芸術性?)

そういうものに我々は惹かれてしまうのではないだろうか?

若しくは、そこにいまだ汲み尽くされていない感情を

我々は見出すのかもしれない。

 

結論はというと

私だって自分にとって大切な人に自分の事を忘れてほしくはない。

ただ、そういうごくごく当たり前の感情を突き抜けた境地に

ある種のあこがれを抱いてしまうのだ。

それが大衆娯楽と文学性の違いなのではと思った次第だ。

 

ただ誤解しないで欲しいが

決して「死」を美化するものではない。

はっきりと述べておく。

 

もし私のように感じる方がいらっしゃいましたらシェアしてください!

よろしくお願いします。

 

なお、歌は文学ではないとの見方もあるかと思われますが

そこはボブ・ディランの例もあるのでひとまず置いておきます。

 

 

PS

村上春樹氏の『ノルウェイの森』は「死」というテーマを

大衆性と文学性において見事に両立させているのではないでしょうか?

初版から長い年月を経てもなお色あせない理由がそこにあると思われます。

 

 

 

バトル野郎 ~100万人の兄貴~(1992

歌:筋肉少女帯

作詞: 大槻ケンジ

作曲:本城聡章

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

なんで戦うかは

後々にしようぜ

死ぬも生きるも

ヒュルリラ

ヒュルリラ

バトル野郎

(行くぜ)戦いの道もえもえ燃えて

バトル野郎

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

俺が死んでも

泣いちゃいけない笑えよ!

ヒュルリラ ヒュルリラ

風に流して忘れろ!

(そこで)戦いの道もえもえ燃えて

バトル野郎

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

生まれながらの性で

断末魔の時さえ

心で笑う男

戦うか!この俺と君は?

 

人生ホラ

何処にも逃げ場はねえのさ

天王星まで逃げたって

弥勒菩薩の手の上

(だから)戦いの道えらえら選ぶ

バトル野郎

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

 

なおこの文章をUPするにあたり友人に推敲をしてもらいました。

ここに敬意と感謝を表します。

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意識と無意識、個と共同体

 一時期フットボールの日本代表本田圭佑選手が

「個」の力を伸ばすことが必要とよく述べていた。「個」と「集団」の関係について考えてみた。

  突然だが、アリやハチの集団には「共有する無意識」があると思われる。

誰に教えられたわけでもなく「群れ」として有機的に機能するからだ。

 では人間の集団・共同体、国家、なんでもいいが、これらには「共有する無意識」があるのだろうか?

 おそらくはある

家族には家族の,

職場には職場なりの、

オーケストラの楽団員には楽団員なりの、

フットボールチームにはそのチームなりの

「共有する無意識」が存在するといっていいだろう。というよりもむしろ、それがないのは集団として未成熟ともいえる。 「共有の無意識」、それは「共有の価値観」とか「阿吽の呼吸」と言い換えてもよい。ここでは「集団の無意識」と呼ぶ。これに対して個々人が持つ考えを「個の意識」と呼んでみる。 「個の意識」と「集団の無意識」とは時にシンクロし、時に相互に作用しあって互いを形成している。

  ある作家が「人間は国家がなくても生きられるが、人間なくして国家は存立しえない。どちらが主であり、従であるかは自明の理である。国家とは個々人がより生活しやすくするために作った《道具》に過ぎない。」という趣旨のことを述べておられた。

また「無意識」という概念が、フロイトという個人の「意識」によって生み出されたものである以上、「意識」は「無意識」の上位に位置するのだろうか。とすればその解釈を「個」と「集団」に当てはめてみれば「個の意識」は「集団の無意識」より上位に位置するのだろうか?

個の意識 > 集団の無意識

  別の作家は次のように述べている。個人の無意識は水面下で皆、他者の無意識とつながっており、それは夢という形をとって現われる、そしてその連なった無意識のうち、

水面上に表出したものが「個人の意識」である。 その意味で解釈するならば、

あくまで「個の意識」は「集団の無意識」に従属するのだろうか?

個の意識 < 集団の無意識

  アリを例に考えてみよう。 アリは餌を見つけるとそこから巣までお尻からにおいを出して帰る。その匂いをたどってほかのアリが列を作る。こうして餌と巣の間にルートが出来上がる。ところが中にはイレギュラーなアリがいて、列からそれて、勝手に自分で最短ルートを作ってしまう。このアリがお尻からにおいを出し、こうして新たなルートができる。このイレギュラーなアリは結果的に集団に貢献している。

  次に人間の例を見てみる。

 エジソンという人間がいた。刑務所に電気椅子をセールスして回ったろくでもない男だが、彼もその幾多の発明品によって人類社会に貢献すること大であった。

  彼らは共同体の枠の中でその存在価値を示した。彼らに共通して言えるのは個「個の意識」を持っていたことだ。簡単に言うと彼らは「自分自身」を持っていた。やはり

個の意識 > 集団の無意識

なのだろうか? 最後にもう一つ例を見てみたい。かつてイタリアにジョルダーノ=ブルーノ(1548~1600)という学者がいた。「宇宙は無限だ」と公言した初めての人で、ローマ・カトリック教会の権威に反対するのを承知で、コペルニクスの地動説に賛同した。結果、異端として火あぶりの刑に処された。「宇宙は無限だ」と言い張ったのが死刑の原因だった。処刑される直前に「裁かれている私よりも、裁いているあなた方のほうが、真理の前におののいているのではないか?」と述べたことが現代に伝わっている。(『世界史講義録』金岡新先生より)

  彼の何がいけなかったのだろう? 思うにジョルダーノブルーノは常識の先を行き過ぎていた。共同体の枠をはみ出してしまったのだ。たとえそれが真理であったにしても。彼は自説を曲げるべきだったのかもしれない、誰よりも自分自身のために。そんな時にこそ人はユーモアや皮肉を必要とするのだろう。 彼自身が初めて唱えた説ではなかったにしろ、結果からみれば彼は時代を先取りしていた。二歩も三歩も!

「個人の意識」は時に「集団の無意識」を突き抜けることがままある

その一つの例だ。俗にいう天才というやつだ。ただ現実にはコペルニクスが地動説を発表してから市民権を得るまで100年以上が経過している。「集団の無意識」の改革は徐徐に徐々に進むものであり、きっかけを作るのが「個の意識」だとしても、それはやはり「集団の無意識」に従属せざるを得ないという事だろうか? もしくは時代の半歩先を進むものは成功をおさめるが、2歩も3歩も先を行くものは逆に排斥の対象となる、という事だろうか?そう考えるなら共同体の懐の深さが問われるのだが・・・

  思うにジョルダーノブルーノは自制(よくない言い方をすると計算)すべきだったのかもしれない。まさに『冷静と情熱の間』だ(笑)。 結論として言えることは

「個の意識」は「集団の無意識」と折り合いをつけるべきなのだ。時と場合にもよるのだろうが・・・

 また、ジョルダーノ・ブルーノには申し訳ないが、自己のであれ他者のであれ共同体のアイデンティティーを脅かしてはならない。たとえそれが真理だとしても。若干話題はズレるが、昨今フランスで話題になったムハンマドの風刺画はやめるべきだったと私は思う。(表現の自由が大切なのは重々承知だが) 文化の多様性という面からはもちろんだが、誰だって家族や友人のことを悪く言われるのは嫌だ。信仰の対象を茶化されるのはなおさらだろう。「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」だ。もしやるならばそこには愛のあるユーモアが必要と思われる。あとは受け取る側の懐の深さと。

  どうでもいいことだが仕事を定年退職できたら犬を飼いたい。ブルーノと名付けてうまいものをたらふく食わせてやりたいと思うのだ。

 

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汚れちまった悲しみに

中原中也の詩

『汚れちまった悲しみに』の

「汚れちまった悲しみ」とは

一体どんな悲しみなんだろうと

ずっと考えていた。

 

やっとわかった気がする。

小林麻央さんの死だ

 

私は小林麻央さんの事は良く知らない。

以前フリーのニュースキャスターをやってらして

今は梨園の妻であり、

二人の幼子の母親というくらいだ。

あと、ブログは読ませていただいた。

 

幼い子供を持ったお母さんが

若くして亡くなったのは残念で悲しい事だ。

ただ、以前はともかく今の彼女は私人であり、

その死を公共の電波を使って

ここまで大々的に報道するのはどうなのだろう?

私が身内ならそっとしておいてほしいと願うところだが・・・

 

また、彼女のNEWSZERO(日本テレビ)時代の元同僚である

『嵐』の櫻井翔さんが

泣きながら彼女の死についてのインタビューに答えた様子を観て

「演技がかっている」だの

「ほんとうに大切な人が亡くなったら、あんな悲しみ方はしない」だの

「だからジャニーズは嫌い」だのと

ネット上で炎上しているとの事。(625日時点)

ひどい話だ。

もしかしたらあの状況でインタビューを求められて

櫻井さんも自意識過剰になっていたのかもしれない。

しかし、そこまで桜井さんに求めるのは筋違いではないだろうか?

 

そんなことよりも腹立たしいのは

この例からもわかるように

若くて二人の幼子を持つ母親の死という「悲劇」を

我々大衆が「消費」している一面があることだ。

彼女の人生は「商品」ではない!

 

もう一つ不自然なのが

彼女の死の報道がなされた時間帯だ。

それは前川前事務次官の会見の実況中継の真っ最中に行われた。

 

彼女の死が私事であるのに対して

前川前事務次官の記者会見は公事だ

どちらがより重要か中学生でも分かる。

であるのに何故メディアは彼女の死をメインに報道したのか?

結果、前川前事務次官の会見の実況中継は

ものの5分に満たないものとなった。

ひょっとして彼女の死の報道は

国民の関心の矛先を

政治問題からそらすための「道具」として

使われたのではないか?

そう考えるのは私だけだろうか?

 

もし、私の考えていることが

真実の一端をつかんでいるのなら・・・

 

私は憤慨する。

 

彼女の死は「商品」ではないし

ましてや「道具」などでは断じてない。

 

一人の妻であり、

二人の幼い子供の母親である

若い女性の死

という「悲しみ」を

我々は寄ってたかって

「汚した」のではないだろうか?

 

「汚れちまった悲しみ」

がどんな類の悲しみなのか、

自分なりに解釈できた気がする。

 

もういい

これ以上はたくさんだ。

 

ただ、

メディアがどうあれ

ネットがどうあれ

結局のところは我々一人一人の

リテラシーにかかっているのではないだろうか?

我々大衆も学び

考えねばならない。

 

 

汚れっちまった悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れっちまった悲しみに

今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは

たとえば狐の革ごろも

汚れっちまった悲しみは

小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは

なに望むなく願うなく

汚れっちまった悲しみは

懈怠のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに

いたいたしくも怖気づき

汚れっちまった悲しみに

なすところもなく日は暮れる……

 

中原中也

『山羊の歌』より

 

麻央さんのご冥福をお祈りいたします。

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禅問答

禅問答とは何か?

一番わかりやすいのが

一休宗純と将軍足利義満

屏風の虎の話だろう

(実話か作り話かはさておき)

 

将軍「一休、この屏風に描かれた虎を捕まえてみよ」

一休「わかりました。ではまず、なわを用意してください」

将軍「ほれ用意したぞ、約束通り屏風の虎を捕えてみろ」

一休「わかりました。では次に屏風の虎を外に出してください!」

将軍「屏風の虎を外に出せるか!」

一休「屏風の虎を捕えられるか!喝!」

 

という具合だ。

一休は将軍足利義満の無理難題を見事に喝破しているが

普通の人にはそうはいかない。

将軍様の無理な言いつけに困惑するのみだ。

そして真面目な人ほど

このやり取りを通じて

将軍様=主

その人=従

という関係性(依存関係)

に組み込まれていく。

 

こいつがしょっちゅう行われている場所がある。

 

 

 

学校だ

決して悪く言うわけではないが

ただ

誤解を恐れずに言うならば

何かを表現・主張するという事は

時に誰かを傷つけることだ

たとえその気はなくとも

それが嫌なら何も主張しなければいい

でもそしたら今度は

あいつは何も主張しないやつだ

と言われる。

どっちにしても何か言われるのなら

主張した方がましだ

それに

毒にも薬にもならない表現など

最初から存在する意味がないとも思うのだ。

 

と言い訳を述べたうえで

敢えて言わせてもらうなら

 

非常にナンセンスなことだと思う。

 

職員室で

部活を辞めたいと泣いている生徒に対して、

教師の側がずーっと沈黙しているのだ。

それが延々続く

 

若しくは

いわゆる禅問答を教師の側が吹っ掛けるのだ

そうして返答に困っている生徒に対して

ここぞとばかり

依存関係を深めていく。

 

「おいおい、これから自立していこうって世代に対して

依存を深めさせてどうすんだよ!」

 

と傍目で見ながら

内心では思っていた。

(自分が中学生だった時も教師になってからも)

≪高校時代は幸いそういう先生には出会わなかった≫

 

思いはため込んでおいてもどっかから噴き出すもので

私の場合ある日の授業でそれが出た。

 

「君らは『鋼の錬金術師』って漫画を知ってる?」

あの漫画の最初のエピソードが面白い。

ある若い女性が恋人を亡くした悲しみから宗教にはまってしまう。

熱心に信仰すればその恋人が生き返るとそそのかされて。

ところが主人公である鋼の錬金術師

(自分の母親を蘇らせようと、禁忌とされていた人体錬成を行い

その代償として右手左足を失い義手義足になった)

がその宗教のインチキを暴く。

結果その若い女性は何と言ったか?

「これから私は何にすがって生きていけばいいの?教えてよ」

これに対して主人公は何と答えたか?

「そんなことは自分で考えろ。

立って歩け!前へ進め、あんたには立派な足がついているじゃないか。」

 

10年以上前の漫画だから少し表現的にどうかという面もあるが)

言わんとしていることは十分通じる普遍的なメッセージだ。

 

「かつて昭和の国民的ドラマ『3年B組金八先生』の中で主人公、

坂本金八が「人という字は人と人が支えあって人なんだよ。」

と言っているけど、

まずは一人一人が自分の足で立って歩いて

その上で支えたり支えられたりするんだ。

まず、自分の足で立って歩くこと

少なくともそうしようと努力することだよ。

そのために、まず連れ立ってトイレに行くことを辞めたらどうかな?

まずはそこからだよ。本当に」

 

私の長くもない教員生活の中で珍しく「いいこと」を言ったと自負している。

それによって否定されたように感じた方もいただろうし

その方にはその方なりの理由もあったろうし

(孤独だっただけかもしれない)

と思うと申し訳ないのだが・・・

 

ただ依存関係に組み込むことを教育と称する

変な風習が当時まかり通っていたのは事実だ。

 

個人競技、例えばフィギアスケートの安藤美姫モロゾフコーチのような

関係が成り立つのは、それはそれでわかる。

しかし、学校教育というのはそれとは違うだろと思う。

なんでこんな話(禅問答)になったのかというと・・・

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

とにかくトイレには一人で行こう!喝!

私が言いたいのはそれだけ!

 

 

 

鋼の錬金術師①』 荒川弘 2002

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アイデンティティー

まだクリスチアーノ・ロナウド

マンチェスターユナイテッドにいたころ、

試合後、彼がどこで誰と夜遊びをしていたか

アレックス・サー・ファーガソン監督は

翌日の朝にはちゃんと把握していたらしい

(『Number』より)

まあ、それは良くわかる話だ。

彼ほどのスター性

(後にマンUに莫大な移籍金をもたらす)

があるダイヤの原石(すでに十分輝いていた)を

その私生活を含めてしっかり監督しておくことは

クラブにとってもファーガソンにとっても

一大事だったのだろう。

あれだけのルックス(私より若干ハンサム(笑))

と実力、富と名声

どれをとっても常人には到底手の届かないものだ。

 

さて私は名も無いオッサンだが

彼の事が羨ましいかというと・・・

 

そうでもない。

いや、羨ましいといえば羨ましいのだが

自分はこれでいいかなと思う。

 

何故か?

 

私にあって彼にないもの

それは

「自由」だ。

 

私がどこで誰と何をしようが

そんなことは人様の興味の対象外だ。

LINEでどんなやり取りをしようが

ブログに何を書こうが

気に留める人はいない。

いるとすれば

それは学生時代のごく近しい

(今では遠く離れた)

友人や恩師くらいのものだ。

 

だが、これがクリスチアーノ・ロナウドだったら世間が黙っていない。

 

つまり、何が言いたいかというと

内心、思想、言論、表現という点で

私はクリスチアーノ・ロナウドよりもはるかに「自由」だ。

そして私は「自由」が好きなのだ。

おそらくほかの何よりも

 

古代ギリシアの格言に

「汝自身を知れ」

とある。

それはつまり

「自分が何が好きで何が嫌いか、それをわきまえろ」

という事だと私は理解している。(諸説あるが)

その意味で私は私自身をよく解っている。

(当たり前だ、もう40だ。解らないでどうする?

ただそうでない人がいるのも事実)

 

そして自分自身を知ると

いろいろな物事が実にシンプルに見えてくる。

そのシンプルな価値基準に従うことで

人は自己をより肯定的に

とらえることができるのではないだろうか?

 

「私が私で良かった。」

 

アイデンティティーってつまりはそういうことだと思う。

その意味で私は結構幸せなのかもしれない。(感謝)

 

You need to be yourself

You can't be no one else

OASIS Supersonic

 

Get grip of yourself It don't cost much

OASIS Whatever

 

僕が僕らしくあるために

好きなものは好きと

言える気持ち

抱きしめてたい

槇原敬之 どんなときも)

 

私以外私じゃないの

当たり前だけどね

だから

報われない気持ちも整理して

生きてきたいの

普通でしょ

ゲスの極み乙女 私以外私じゃないの)

 

僕が僕であるために

勝ち続けなきゃならない

尾崎豊 僕が僕であるために

 

様々なアーティストが扱っている普遍的なテーマだ。

繰り返しになるが

「自分が自分で良かった」と思えること

それは幸せのひとつの形なのだと思う。

そのためにも

「汝自身を知る」

必要があるのではないだろうか?

さすが古代ギリシア

伊達じゃない(笑)

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押してダメなら・・・

多様性の大切さが叫ばれる昨今。

多様性の何がそんなに大事なのか?

多様性とは何かを考えてみた。

 

結論から言うと多様性とは

「押してダメなら引いてみな」

という事だ。

もう少しいうなら

「引いてダメならスライドさせてみな」

「それでもだめならノックしてみな」

といったところか。

ある問題に対して

Aという解決法しか持たない場合

その手段Aが通用しなければ

それで終わりだ。

しかし、Bという手段を併せ持つなら

解決の可能性が広がる。

また、Cという手段を持つなら

さらに解決の可能性が広がる。

ABCDEFG・・・と手段が多ければ多いほど

解決の可能性が広がる。

これが、つまりは多様性の意義だ。

 

さて昨今この多様性について

欧米でその是非が問われているわけだが・・・

そこには何か根本的な矛盾があるように思われる。

 

それは宗教だ。

ユダヤ教に始まり、キリスト教イスラム

この三つの宗教はみな一神教だ。

古代ヘブライ人によって創られた唯一神

その解釈を変えただけで

この3つの宗教は同じ唯一神をその信仰の対象としている。

その3つの宗教が歴史上

時にいがみ合ったり

時に協調したり

時に一方が他方を移民として受け入れるかどうかで

もめていたりするわけだ。

これは多様性の意義と

根本的に矛盾している。

 

モノ、ヒト、カネの移動の距離とスピードが

ここまで進化した現代において

人種・民族が入り乱れるのは必然かもしれない。

そこで生じる様々な衝突(コンフリクト)を

解決するために

多様性が必要とされているのではないだろうか?

だがそのコンフリクトを生み出す一因になっているのが

そもそも多様性の価値観と相入れない

一神教思想なのだとしたら

それはグロテスクな矛盾だ。

その意味で

一神教というのは人類の作り出した

非常に便利な、

しかし、たちの悪い道具

なのかもしれない。

そんな道具

いずれは時代遅れになるのではないか?

と、思うのは私だけだろうか?

幸いこの国には八百万(ヤオヨロズ)の神がいるらしい。

(見たことないけど)

脱原発はもちろんだが

一神教を呼び掛けてみるのも面白いかもしれない。

多様性うんぬんはそれからのような気もする。

 

ただ私の中で一番はやはりあの神様だ!

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1.  キャッシュ

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言葉とロジックと共感と

先日ホリエモンこと堀江貴文氏の本を読んだ。

本全体に対する感想はともかく

興味深い点があったので取り挙げたい。

 

堀江氏は東大駒場寮で大学生活を送ったのだが

他の寮生と些細なことでけんかになった。

その際、堀江氏が言われた言葉が

「お前には人の気持ちってものがわからないのか!?」

これに対する堀江氏の答えは

「人の気持ちなんかわかるわけないでしょ!」

だった。

さて、私は堀江貴文的価値観や生き方を

肯定するわけでも否定するわけでもないが

この会話に対しては一言いいたいところがある。

 

結論から言うと

この寮生の

「お前には人の気持ちがわからないのか」

という発言は論理的に破たんしている。

どう論理的に破たんしているかというと

「お前には人の気持ちがわからないのか」

というからには

彼自身は自分が「人の気持ちがわかる」

という前提のもとに話していることになる。

同時に堀江氏の事を

「人の気持ちがわからないやつ」

と既定している。

という事は、彼は

「人の気持ちがわかるやつ」

であるのだから

「人の気持ちがわからないやつ」の気持ち

も解るという事になる。

これは矛盾している。

何故なら

「人の気持ちがわからないやつ」の気持ちは

「人の気持ちがわかるやつ」にはわからない

若しくは

「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは、

「人の気持ちの解らないやつ」にしかわからない

からだ。

したがって

彼の前提「人の気持ちがわかる」は成り立たない。

ゆえに

「お前には人の気持ちがわからないのか」

という発言は論理的に破たんしている。

もし、この寮生が

「昔は俺もわからなかったけどな。」

というのなら

そこには「時間」という概念が加わり、話は別だが・・・

 

このロジックに私は中学生のころ気づいたが

「あまり言わない方がいいな。」

と思いつつ現在に至っている。

でも、いい大人になった今だからこそ言いたい

「人の気持ちはそう簡単には解らない。

だからこそ言葉を大切に扱うべきだ。」

 

 

堀江氏の肩を持つわけではない。

ただ、我々は安易に

「人の気持ちがわかる」

という表現を多用するべきでなない

とは思う。

他人の心を理解したつもりになって

安易に同情したり共感したつもりになるのは

ある意味、失礼で傲慢なだけでなく

時には危険でさえある。

 

 

十数年ほど前にベトナムに旅行したことがある。

ベトナム戦争の生々しい銃弾の後の残った激戦地を訪れた際

「他人事とはいえ、ひどいな」

とつぶやいたら、

現地の若い日本語ガイドさんが

そっと

「ありがとうございます」

といったのを思いだした。

何に対しての「ありがとう」なのかは、

あえて述べる必要はないと思う。

 

無意識に口から出た言葉だったが

おそらく間違った言葉選びではなかったようだ。

 

語彙を増やすとか、

語源を知るとかいうのとは違う。

 

言葉を丁寧に用いるというのは

難しいようで簡単な、

簡単なようで難しいことかもしれない。

 

ただ、バックグラウンドの異なる他者と

「よりましな関係」を築いていく上で

言葉を丁寧に適切に用いるのは

必要なことであり

ひいてはそれが

「よりましな社会」を築いていくことに

つながるのではないだろうか

 

と、今この文章を書いていてわかったのだが

要するに、

私は無責任に他人の感情に便乗する輩が嫌いなのだ。

心底。

そういう輩がいるから

いじめとか炎上とかヘイトスピーチとかがなくならない。

 

話は戻るが

今はなきSMAPの楽曲に「しようよ」というのがある。

なんて事はない「話をしようよ」という曲だ。

リアルタイムで聞いたときは何とも思わなかったが

今聞いてみると意味あるメッセージが込められている。

今更ですが

SMAPの皆さんお疲れさまでした。

 

 

 

微笑みに分かった顔しないでさ

いつだって気持ち素直に伝えよう

正直にとにかく何でも隠さずに

話をしようよ

 

作詞:森浩美

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