どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

アイデンティティー

まだクリスチアーノ・ロナウド

マンチェスターユナイテッドにいたころ、

試合後、彼がどこで誰と夜遊びをしていたか

アレックス・サー・ファーガソン監督は

翌日の朝にはちゃんと把握していたらしい

(『Number』より)

まあ、それは良くわかる話だ。

彼ほどのスター性

(後にマンUに莫大な移籍金をもたらす)

があるダイヤの原石(すでに十分輝いていた)を

その私生活を含めてしっかり監督しておくことは

クラブにとってもファーガソンにとっても

一大事だったのだろう。

あれだけのルックス(私より若干ハンサム(笑))

と実力、富と名声

どれをとっても常人には到底手の届かないものだ。

 

さて私は名も無いオッサンだが

彼の事が羨ましいかというと・・・

 

そうでもない。

いや、羨ましいといえば羨ましいのだが

自分はこれでいいかなと思う。

 

何故か?

 

私にあって彼にないもの

それは

「自由」だ。

 

私がどこで誰と何をしようが

そんなことは人様の興味の対象外だ。

LINEでどんなやり取りをしようが

ブログに何を書こうが

気に留める人はいない。

いるとすれば

それは学生時代のごく近しい

(今では遠く離れた)

友人や恩師くらいのものだ。

 

だが、これがクリスチアーノ・ロナウドだったら世間が黙っていない。

 

つまり、何が言いたいかというと

内心、思想、言論、表現という点で

私はクリスチアーノ・ロナウドよりもはるかに「自由」だ。

そして私は「自由」が好きなのだ。

おそらくほかの何よりも

 

古代ギリシアの格言に

「汝自身を知れ」

とある。

それはつまり

「自分が何が好きで何が嫌いか、それをわきまえろ」

という事だと私は理解している。(諸説あるが)

その意味で私は私自身をよく解っている。

(当たり前だ、もう40だ。解らないでどうする?

ただそうでない人がいるのも事実)

 

そして自分自身を知ると

いろいろな物事が実にシンプルに見えてくる。

そのシンプルな価値基準に従うことで

人は自己をより肯定的に

とらえることができるのではないだろうか?

 

「私が私で良かった。」

 

アイデンティティーってつまりはそういうことだと思う。

その意味で私は結構幸せなのかもしれない。(感謝)

 

You need to be yourself

You can't be no one else

OASIS Supersonic

 

Get grip of yourself It don't cost much

OASIS Whatever

 

僕が僕らしくあるために

好きなものは好きと

言える気持ち

抱きしめてたい

槇原敬之 どんなときも)

 

私以外私じゃないの

当たり前だけどね

だから

報われない気持ちも整理して

生きてきたいの

普通でしょ

ゲスの極み乙女 私以外私じゃないの)

 

僕が僕であるために

勝ち続けなきゃならない

尾崎豊 僕が僕であるために

 

様々なアーティストが扱っている普遍的なテーマだ。

繰り返しになるが

「自分が自分で良かった」と思えること

それは幸せのひとつの形なのだと思う。

そのためにも

「汝自身を知る」

必要があるのではないだろうか?

さすが古代ギリシア

伊達じゃない(笑)

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押してダメなら・・・

多様性の大切さが叫ばれる昨今。

多様性の何がそんなに大事なのか?

多様性とは何かを考えてみた。

 

結論から言うと多様性とは

「押してダメなら引いてみな」

という事だ。

もう少しいうなら

「引いてダメならスライドさせてみな」

「それでもだめならノックしてみな」

といったところか。

ある問題に対して

Aという解決法しか持たない場合

その手段Aが通用しなければ

それで終わりだ。

しかし、Bという手段を併せ持つなら

解決の可能性が広がる。

また、Cという手段を持つなら

さらに解決の可能性が広がる。

ABCDEFG・・・と手段が多ければ多いほど

解決の可能性が広がる。

これが、つまりは多様性の意義だ。

 

さて昨今この多様性について

欧米でその是非が問われているわけだが・・・

そこには何か根本的な矛盾があるように思われる。

 

それは宗教だ。

ユダヤ教に始まり、キリスト教イスラム

この三つの宗教はみな一神教だ。

古代ヘブライ人によって創られた唯一神

その解釈を変えただけで

この3つの宗教は同じ唯一神をその信仰の対象としている。

その3つの宗教が歴史上

時にいがみ合ったり

時に協調したり

時に一方が他方を移民として受け入れるかどうかで

もめていたりするわけだ。

これは多様性の意義と

根本的に矛盾している。

 

モノ、ヒト、カネの移動の距離とスピードが

ここまで進化した現代において

人種・民族が入り乱れるのは必然かもしれない。

そこで生じる様々な衝突(コンフリクト)を

解決するために

多様性が必要とされているのではないだろうか?

だがそのコンフリクトを生み出す一因になっているのが

そもそも多様性の価値観と相入れない

一神教思想なのだとしたら

それはグロテスクな矛盾だ。

その意味で

一神教というのは人類の作り出した

非常に便利な、

しかし、たちの悪い道具

なのかもしれない。

そんな道具

いずれは時代遅れになるのではないか?

と、思うのは私だけだろうか?

幸いこの国には八百万(ヤオヨロズ)の神がいるらしい。

(見たことないけど)

脱原発はもちろんだが

一神教を呼び掛けてみるのも面白いかもしれない。

多様性うんぬんはそれからのような気もする。

 

ただ私の中で一番はやはりあの神様だ!

https://www.amazon.co.jp/おやつ-1...おおひなた-ごう/dp/4253043879

1.  キャッシュ

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言葉とロジックと共感と

先日ホリエモンこと堀江貴文氏の本を読んだ。

本全体に対する感想はともかく

興味深い点があったので取り挙げたい。

 

堀江氏は東大駒場寮で大学生活を送ったのだが

他の寮生と些細なことでけんかになった。

その際、堀江氏が言われた言葉が

「お前には人の気持ちってものがわからないのか!?」

これに対する堀江氏の答えは

「人の気持ちなんかわかるわけないでしょ!」

だった。

さて、私は堀江貴文的価値観や生き方を

肯定するわけでも否定するわけでもないが

この会話に対しては一言いいたいところがある。

 

結論から言うと

この寮生の

「お前には人の気持ちがわからないのか」

という発言は論理的に破たんしている。

どう論理的に破たんしているかというと

「お前には人の気持ちがわからないのか」

というからには

彼自身は自分が「人の気持ちがわかる」

という前提のもとに話していることになる。

同時に堀江氏の事を

「人の気持ちがわからないやつ」

と既定している。

という事は、彼は

「人の気持ちがわかるやつ」

であるのだから

「人の気持ちがわからないやつ」の気持ち

も解るという事になる。

これは矛盾している。

何故なら

「人の気持ちがわからないやつ」の気持ちは

「人の気持ちがわかるやつ」にはわからない

若しくは

「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは、

「人の気持ちの解らないやつ」にしかわからない

からだ。

したがって

彼の前提「人の気持ちがわかる」は成り立たない。

ゆえに

「お前には人の気持ちがわからないのか」

という発言は論理的に破たんしている。

もし、この寮生が

「昔は俺もわからなかったけどな。」

というのなら

そこには「時間」という概念が加わり、話は別だが・・・

 

このロジックに私は中学生のころ気づいたが

「あまり言わない方がいいな。」

と思いつつ現在に至っている。

でも、いい大人になった今だからこそ言いたい

「人の気持ちはそう簡単には解らない。

だからこそ言葉を大切に扱うべきだ。」

 

 

堀江氏の肩を持つわけではない。

ただ、我々は安易に

「人の気持ちがわかる」

という表現を多用するべきでなない

とは思う。

他人の心を理解したつもりになって

安易に同情したり共感したつもりになるのは

ある意味、失礼で傲慢なだけでなく

時には危険でさえある。

 

 

十数年ほど前にベトナムに旅行したことがある。

ベトナム戦争の生々しい銃弾の後の残った激戦地を訪れた際

「他人事とはいえ、ひどいな」

とつぶやいたら、

現地の若い日本語ガイドさんが

そっと

「ありがとうございます」

といったのを思いだした。

何に対しての「ありがとう」なのかは、

あえて述べる必要はないと思う。

 

無意識に口から出た言葉だったが

おそらく間違った言葉選びではなかったようだ。

 

語彙を増やすとか、

語源を知るとかいうのとは違う。

 

言葉を丁寧に用いるというのは

難しいようで簡単な、

簡単なようで難しいことかもしれない。

 

ただ、バックグラウンドの異なる他者と

「よりましな関係」を築いていく上で

言葉を丁寧に適切に用いるのは

必要なことであり

ひいてはそれが

「よりましな社会」を築いていくことに

つながるのではないだろうか

 

と、今この文章を書いていてわかったのだが

要するに、

私は無責任に他人の感情に便乗する輩が嫌いなのだ。

心底。

そういう輩がいるから

いじめとか炎上とかヘイトスピーチとかがなくならない。

 

話は戻るが

今はなきSMAPの楽曲に「しようよ」というのがある。

なんて事はない「話をしようよ」という曲だ。

リアルタイムで聞いたときは何とも思わなかったが

今聞いてみると意味あるメッセージが込められている。

今更ですが

SMAPの皆さんお疲れさまでした。

 

 

 

微笑みに分かった顔しないでさ

いつだって気持ち素直に伝えよう

正直にとにかく何でも隠さずに

話をしようよ

 

作詞:森浩美

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部活動と指導者とユダヤ人と

最近聞いた話だが

ある高校の野球部では遠征先で試合に大負けすると

行きに乗ったバスに荷物だけ詰め込んで

帰りは走って帰らせるそうだ。

0キロ以上ある道をだ。

ひどい話だなと思っていたら

生徒たちの方も心得たもので

ポケットに小銭を入れておいて

適当にマック辺りで時間をつぶして

頃合いを見計らって電車で帰ってくるそうだ。

なるほど賢いものだなと思って聞いていた。

だけど

ひょっとすると

そのくらいの事は指導者の方も承知の上で

走って帰って来いと

命じたのかもしれない。

キツネとタヌキの何とかではないが

面白い話だ。

 

 

話は移って

以前の私の勤め先では

ある部活が強く

全国大会・関東大会の常連だった。

その部活の生徒と駅まで帰りが一緒になったことがあった。

その際私がエレベーターを使おうとすると

「階段使いましょう。約束だから。」

と言われた。

部活の顧問との約束として

「(足腰を鍛えるため)エレベーターは使わずに階段を使う」

との事だった。

このような約束事を作り、

事あるごとに、それを意識させることによって

顧問と選手との間の信頼関係を構築する。

先ほどの野球部の例と対照的だが

これがこの部活動の強さの一因だったのだろう。

 

上記2例のどちらがよりましな指導方法か?

それは解らない。

長期的な視野で考えたら先に挙げた

野球部のような例から学ぶことの方が

大きいような気もする。

ただ、

どちらが部活動として強くなるかと言ったら

それは間違いなく後者だろう。

 

よいか悪いかは別として

その在り様はどことなく宗教的だな

と思っていたら

 

まさにユダヤ教と似ていた。

旧約聖書』をやさしく解説した本を読んで再認識したのだが

ユダヤ教の神「ヤハウェ」は非常に疑り深く、嫉妬心が強い。

人間が自身(ヤハウェ)を本当に信じているのか?

自身(ヤハウェ)との約束をきちんと守っているのか?

何度も何度も人間を試す。

時には悪魔に人間を誘惑させてまで試す。

自分を裏切ろうものなら町ごと焼き尽くす。

そのうえで自分を本当に信じる者にだけ救いを与える。

そんな存在だ。

 

私自身がユダヤ教徒な訳ではないので詳しいことは解らないが

契約(約束)を重んじるところが後者の例にそっくりだ。

 

それと同時に

優秀な人(何をもって優秀とするのか解らないが)

歴史に偉人として名を残す人に※

ユダヤ人が多いのは偶然の一致だろうか?

 

 

私にはそうは思えない。

 

ずいぶん話が飛躍してしまうが

この部活動の強さとユダヤ人の優秀さには

共通点があると思う。

 

それはある種のストイックさのようなものだろうか?

 

誤解しないでいただきたいのだが

私はこの部活動のような指導方法や

ユダヤ教徒の方々を否定するつもりは全くない。

むしろ学びたいくらいだ。

パレスチナ問題など政治的な事柄はあえて触れないが)

 

ただ、

学校の先生の言いつけを破って

友達と買い食いした

そんな思い出が

意外と自分のアイデンティティーの在り処になっていたりもする。

とも思うのだ。

 

そうなると、アイデンティティーと宗教の関係性とは何か?

というテーマに話は変わってくるのだがそれはまた別の機会に・・・

 

余談になるが

おおひなたごう先生の『おやつ15』(秋田書店)を読むと面白い。

おやつの神様という神様が出てくるのだが

出てくるたびに

コスチュームのロゴが変わる

「神ひとすじ」やら「神ING」だの「一生涯神」だの「おむつ」だの

読者を飽きさせない。

おおひなたごう先生のセンスには脱帽だ(笑)

 

 

ノーベル賞22%、フィールズ賞30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。カール・マルクジークムント・フロイクロード・レヴィ=ストローなど、近現代の哲学・思想方面のキーパーソンを輩出しているほか、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られている[22]。また、アインシュタインユダヤ人である。(ウィキペディアより)

 

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ちっぽけな

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今日、職場の喫煙室で
キットカットを食べていたら
私より十ほど若い男性と二人になった。
たまに一緒になるこの人に
何気なく
ソフトボール大会出ますか?」
と聞いてみると
「出ます。」
との事。
「~さんは?」
と聞かれたので
ソフトボールの苦手な私は
「私は野球とかソフトとか全然ダメなんで・・・」
と答えると、その方は
「私だってやったことありませんよ、全然。でも出ますよ!」
と少し語気を荒げた。
その場はそれとなく別れたのだが、
後になって反芻した。

みんなで何かを盛り上げていこうという時に
自分がいいかっこできないからという理由で
参加しないというのは
我ながらなんとかっこ悪いことか
「自分ちっぽけだな。」
と、深く恥じ入った。
実際に参加するかというと
したらしたで立場的にも年齢的にも
気を使うし、気を使われるので
参加はしないつもりだが、
それとは別に、
今回大いに学ぶところがあった。
私より十ほど若いその方は
私に対して真摯に正直に対応してくれた。
そんなことしても彼には一文の得にもならないのにだ。
この年になると誰かに本音で何かを言ってもらえる事は稀だ。
距離を置かれたり、見限られたりするのが大概だ。
その意味で本当に有難かった。

また、人はいくつになっても
相手が自分より年がいくつ下であっても
人から学ぶことができる。
それを実感した。

今日学んだ事と
「自分ちっぽけだな」
というこの気持ちを
心のどっかに置いて
やっていこうと思った。

 

 

カッコよさ

十九、二十歳の頃「カッコよさ」をひたすらに求めていた時期があった。
仙台中のファッションビルや服屋を友人とめぐり歩き、
お金もないのにBEAMSやらSHIPSやらに入り浸り
メンズノンノを熟読していた頃だ。
そんなことを2年もしているとやがて
「カッコよくなろうとすることってある意味カッコ悪いよな」
という一定の結論に達して
私と友人の「カッコよさ」をめぐる冒険は次のステージへと進んでいくのだが・・・

今思い返してみると
あれはあれで必要な「自己投資」だったのかもしれない。
いわゆるおしゃれに
敏感すぎるのもなんだが
無頓着すぎるのもどうかと思う。
ただ、今だったらもっとはるかにコストパフォーマンスの良い投資
つまり「時間」と「労力」と「お金」をもっともっと効率よく使えたのにと思う。

無論というべきか
その背景には「ネット」の普及がある。
ネットにつながる環境さえあれば
おしゃれを学ぶことはそう難しくはない。
具体的にどう難しくないかというと

「ドラフト」

という会社をご紹介したい。
フェイスブックでお友達になっていただいた
伊藤佑樹さんが社長を務める
メンズファッション(20代から30代)に特化した
ネット通販事業を展開している会社だ。

面白いのは、「ドラフト」では
ただ服を売るのでなく
その商品をどう着こなすか,着まわすかの
TPOに合った実例や知識
体形別のサイズ選びなど
おしゃれに不慣れなユーザーが
おしゃれを学べる様々なコンテンツ(ブログや動画)を

展開(もちろん無料で)している点だ。
しかも商品の価格も手頃だ。

こんなサイトが私たちが服屋に入り浸っていたころ
(ちょうどネットが普及し始めたころ)
あったら良かったのに
と思わずにはいられない。

また、伊藤社長のブログが大変面白い。
非常に探究心旺盛で理知的な方だと思う。

今後の更なる発展を陰ながら応援させていただきたい企業だ!

 

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フェイク②

フェイク

最近「フェイク」という言葉をよく耳にする。
例のトランプ大統領の「フェイクニュース」発言だ。
トランプ氏の言うことはどうかと思うが
多かれ少なかれ我々は「フェイク」の中で生きているのだと思う。

結論から言うと
事実が一つであるのに対し
真実はいつだって複数形だ。

一つの事実にどういう方向から光を当てるか?
光の当て方次第で映る影の形も変わる。(完全な球体であれば話は別だが)
つまり光の当て方だけ(人の数だけ)真実がある。

若しくは

どういう事実を
どのタイミングで
どれだけの量
どういう方向性で
流すか?

そこにはおのずと伝える側の主観が入る。
その意味において
すべての真実はフェイクであり、
フェイクでないニュースなど存在しないのかもしれない。

そして極論すれば人は
数ある真実(フェイク)の中で
「自分の信じたいことを信じる」のだ
誰だって
「あの子お前に気があるらしいよ。」
と言われて悪い気はしない。(たまに例外もあるが・・・)
若しくは
「こうであれば皆が丸く収まるのに」
という類の真実を信じたいのだ。
もしかすると、この国ではそれが顕著かもしれない。
良くも悪くも、それがこの国らしさなのだろう。


ただ、時の洗礼を受けて
それこそ100年200年という時間を経て
多面的で客観的な資料(質量ともに)を分析することで
浮かび上がってくる「より妥当な事の本質」というものがある。
その作業こそが歴史学の存在意義なのだと思う。


ほんの少しだが
歴史をかじってよかった。
親のすねもかじらせてもらった。
感謝だ(笑)。

 

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