どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

釈迦に説法

先日ひょんなことからある学生さんから質問を受けた。
「死後の世界についてどうお考えですか?」
私「孔子は習った?」
「はい」
私「ある日一人の弟子が孔子に聞いたんだって。」
『死とは何ですか?』
孔子が答えて言うには
『我未だ生の何たるかを知らず、いずくんぞ死を知らんや!』
 つまり、私は生まれてこの方50~60年生きているが、
未だに生きるということがどういうことなのか解らない。
なのにどうして死というものがわかろうか!」
って言ったんだって。
(説明していてなんだか俺冴えてるなと
一瞬勘違いしかけたが俺が冴えているんではなく孔子が冴えているんだ。)

 孔子ってすごく真摯だよね!
生きることに対して
ちょーかっこー良くない?!

 死んだこともないのに死後の世界について語るなんて
どんなもんだろ?
死後の世界については死んだことのあるやつに聞くのが一番だと思うよ。

 

 話は変わるけど皆さんはキン肉マンってまんが知ってる?
キン肉マンは普段は不細工で愛嬌のあるマスクをかぶっているんだけど
マスクの中は実はチョー男前なの。
でね、キン肉マンはあまたの超人たちと戦うんだけど、
最後の最後、最終回の大ピンチに
そのマスクをあごのところからちょっとめくり上げるの!
するとそこからピカーってビームが出て敵をみんなやっつけて、
弱っていた味方が復活するの!
だったら最初から素顔で戦えばいいじゃん(笑)って話なんだけど・・・

 何を言いたいかっていうと、
皆さんも孔子のように真摯に生きてごらん?
そのうちに、ちょーイカシタ顔立ちになるから!
そしたらね、マスクをかぶるんだキン肉マンのように!
ただね、ドナルドトランプ氏のマスクはだめだよ(笑)
でね、困ってる人、疲れた人、傷ついた人がいたらね
そのマスクをあごの下からちょっとだけめくるんだ。

するとそこから
ピカーってビームが出てそれがその人たちを癒してくれるから!

これは嘘のような冗談のような
ほんとの話。

だからね、ゆっくりでいいから
きちんと学んで、考えて
そして真摯に生きてごらん
必ずビームが出るから!キン肉マンのように!

私が言うんだから間違いない(笑)!

 と、この文章をその学生さんが読んでくれて、もし笑ってくれたなら
その笑顔こそが、(作り笑いや、愛想笑いでなく)
人を元気にするんだよ!
と、そこまで言えなかったのでブログにしました。
読んでください。

 

(『キン肉マンゆでたまご)より

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ヒーロー

 「何をするにもマニュアルって必要だよね」

といったのは兼好法師。(12831352徒然草の作者)それに先立つこと約100

「そんなもん必要ねーよ」

といってのけたのが中国・南宋の武人、岳飛。(11031142若き日の岳飛が戦争の指揮が巧みなのに驚いた上官が

「お前には見どころがある!きちんと法を学んでみないか?」

といったのに対して、岳飛曰く

「機に臨みてはまさに変ずべし。」

「その状況次第で各々に対応するだけです。」

つまり(私にはマニュアルなんて必要ありません)自己の才能に対する並々ならぬ自信がうかがえる。ちなみにこれがもとになった四文字熟語が

 臨機応変

 さらに時をさかのぼること千数百年。やはり中国、漢の高祖・劉邦に仕えた武人、韓信BC230BC196頃)はマニュアル(兵法)を逆手に取ることで戦争に勝利している。

河を背に布陣し、(逃げ場がない為、兵法の常道に背理する)敵に

韓信は兵法の兵の字も知らぬ間抜けだ」

と油断させる一方で、味方には

「川におぼれて死ぬくらいなら戦って死ね」

と命じ、死力を尽くして戦わせる。その間、別動隊が敵方の空になった城を占拠し

それを誇示することで、浮足立った敵軍を前後から挟撃し、攻め滅ぼした。

 いわゆる「背水の陣」である。

 のちに劉邦韓信は人物評をする。

あいつは百人の将(百人を指揮するに足る将)

こいつは千人の将

そいつは万人の将

等々

劉邦「そういうお前はどうなのだ?」

韓信「多々益々益す」(多ければ多いほどよいでしょう)

自身の将器・将才に対する絶大な自信だ。

劉邦「では俺はどうだ?」

韓信「恐れながら陛下は兵の将としてはせいぜい千の将、しかしながら、陛下には将の将たる器あり」

この会話は二人の人間関係の醍醐味ともいうべきものだ。

 それはさておき、兼好法師の言うことはもっともだ、と頭ではわかりながらも、国史上に残る二人の名将に惹かれるのは私だけだろうか?確かに兼好法師の言うように何事にもマニュアルは必要だ。おそらく人生にも・・・ 

何歳までに結婚し

何歳ごろ何人子供を持って

何歳ごろまでに一戸建てを持ち

子供の将来のために毎月これだけ貯蓄して

老後は・・・ 

良いことか悪いことかわからないが

私はこういったマニュアルに興味がない。

いわばマニュアルフリーだ。

 もしくは「マニュアルにとらわれない人物」(実在なり・架空なり)を

マニュアルにしてきたのかもしれない。

 つまり、それが私にとってのヒーロー像だったのだと思う。

 ただ、ここにきてちょっと問題が出てきた。

私にとってのマニュアル(ヒーロー)

の多くは40にならずに死んでしまっているのだ。

 しかもろくな死に方をしていない。

先述の二人の武将にしても、国史に詳しい方はご存じと思うが残念な死に方だ(その原因の一端は彼らにもあると思われるのだが・・・)

で、無事に40まで生きた私としては

新たなマニュアル(ヒーロー像)を探す必要に迫られているわけだ!それはウォーレン・バフェット氏のごとく賢くも美しい生き方をする人か?もしくは一企業人として生きるからには島耕作」の様な人物か?(『課長~会長島耕作』、弘兼憲史著)

ただ、彼の場合、課長時代は、仕事が好きで、閥が嫌いで人間味あふれていて、転勤しては愛人を作りで、非常に魅力的な人物なのだが、出世して地位が上がり、それに伴い責任が増すにつれて私人としてよりも公人としての面が色濃くなってくる。偉くなってからの島耕作正直ちょっと窮屈そうだ。

 とすれば、目指すべきはやはり、特命おびたる係長、あの人か?

 人生の折り返し地点に近づいて、なんだか面白くなってきた。

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『〇〇時代から好きでした。』

 「『〇〇時代から好きでした。』っていうある現代美術家のキャッチコピーがあるんだけど、この〇〇に何が入ると思う?」

こんな質問を授業の合間にしたことがある。多くが「青春時代」とか「中学時代」と答える中でただ一人

 「戦国時代!」

 と答えた子がいた。「んなわけねーだろ!」とほかの生徒からブーイングを浴びていたが、実は一番的を射ていたのはこの答え。正解は「江戸時代から好きでした。」

(『この人ゴミを押しわけて、早く来やがれ、王子さま』イチハラヒロコより)

  これが「中学時代」とか「青春時代」だとありきたりだが、「江戸時代」からというところがこのキャッチコピーの面白み。「一体どんだけ好きなんだよ!」とツッコミみが生じる余地がある。

 さて何の話かというと「AI」、人工知能だ。今、人工知能が面白い。自動車運転の人工知能とか、調理の人工知能とか、囲碁人工知能とか、兵器に使われる人工知能とか、詳しいことはわからないがとにかくすごい。いろんな人工知能があっていい?(兵器?)本当にいいのか?と思うのだが、もし私が人工知能を創れるなら

 「江戸時代から好きでした。」

 くらい言えるのを創りたい。非常に高度なコミュニケイションだと思う。「江戸」という発想は普通出てこない。いわゆる大喜利(文脈【常識】を踏まえた上での意図的なずらし)をディープラーニング?することで、できるようになるのだろうか?とにかく

江戸時代から好きでした。」

とか言われたら、相手が人工知能でもちょっと心をくすぐられる。

このようにユーモアにあふれた人工知能が欲しい!創れるものなら創りたい! 

毎日が楽しくなること間違いなしだ。(笑)

 PS

「あたしだって若いころわね、そりゃもてたんだから!」

「それは石器時代の話ですか?」(笑)

 

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意味なんて・・・

意味なんて・・・

 

「意味なんて♪

ないさ、暮らしがあるだけ♪

ただ腹を空かせて

君のもとへ帰るんだ♪」

 

星野源の『恋』という曲のワンフレーズが気にかかる。

詩的な言い方をすると心の琴線に触れる。

 

私くらいの年になって独身の友達は

仕事なり、趣味なり、

各々の面で社会的「意味・意義」の

あることをしようとしている。   

自身の仕事・趣味を深堀してそれなりの成果を上げているのだ。

「一人暮らしで自由に使える時間が余りある」

というのも一つの理由だ。

家族がいない分その時間を自分のために費やせる。

当然といえば当然だ・・・

僭越ながら私のブログも同じだと思う。

 

ただこの歌詞を聴いて妙に心にひっかかるのは

「意味とか意義」なんて大それたことなくてもいいから

ごく当たり前の暮らしを手に入れる機会は

一度ならずあったのにという

いわば後悔の念からだ。

 

There   is   no  use  crying  over  spilt  milk.

「腹水盆に返らず」

とはよく言ったもので

まあ、過ぎたことは仕方ない。

 

と頭で理解していても、

それでもこのフレーズにひっかかるのは

感情を理性で統御することの難しさからだろう。

 

最近ウォーレン・バフェットという投資家についての書籍を読むが

彼の非凡さはいわゆるIQの高さではなく、

きっとこの「確固たる理性の力」にあるのだろう。

 

見習いたいような

見習いたくないような

見習わねばならぬような

 

複雑な心境だ。

 

別に投資で一儲けしようとか言うそういう魂胆ではない(笑)。

 

ただ、そんなことを思った。

 

カップラーメンをすすりながら・・・

 

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不惑

 先日ウォーレンバフェット氏(世界屈指の投資家)についての本を読んだ。

バフェット氏曰く、投資に向いているのは「独立思考」のできる人間だと。「独立思考」とは群集心理から独立して思考できる人間。わかりやすい例を用いると

「王様は裸だ!」

と言える人間との事。

「それって子供じゃん。(笑)」

と思った。同時に、いい大人になってもそれができたのが(敢えて行ったのが)

ソクラテス」(古代ギリシャアテネの哲学者、無知の知を提唱した) 

なのではないか、とも思った。

ソクラテスを扱った光文社文庫を数冊読んでの感想。)

疑問に思うのは「王様は裸だ!」といった子供のその後・・・

おとがめはなかったのか?

まっとうな大人になれたのか?

ちなみにソクラテスの最後については残念ながら周知のとおりだ。

(ポリスの価値観を揺るがせたとの罪で毒杯をあおって刑死)

彼を慕う友人たちの力で国外に逃れることも可能だったらしいが、敢えて死を選んだらしい。そこにはある種の美学がある。このソクラテスの生き方と対照的なのが

「仕立て屋」

の生き方だ。人の(群衆)心理というものを実によく理解し、そこに介入してくる。

服ができたら大金せしめてとんずらだ。実に賢い生き方と言える。

 

さて、ここで問題だ。美しく生きることと、賢く生きることは

時に背反するのではないか?ちょっと昔に松浦亜弥さんが楽曲『ねーえ』の中で

「♪迷うな、セクシーなの♪キュートなの♪どっちが好きなの?♪」

と歌っていた。この場合、相手が松浦亜弥さんであればどちらでもいいのだが・・・

 

To  live  beautifully  or  to  live  smartly

That  is  the  problem.

 

美しく生きるべきか

賢く生きるべきか

 

不惑にして

惑わずにはいられないのだ・・・

孔子の言葉「四十にして惑わず」より)

 

ちなみに「馬鹿」という言葉の語源を調べてみると面白い。

このテーマをなんと2000年以上昔にあつかっている。

中国という国の文化は確かに偉大だ。

 

もう一つちなみに

英国人作家のジョージ・オーウェルもやはりこのテーマを

1948年に出版された『1984年』の中であつかっている。

英国もやはり偉大だ。

 

最後に昭和から平成にかけての日本の国民的ドラマ『3年B組金八先生』の中で

武田哲也さん演じる坂本金八卒業する生徒たちに対して述べている。

「立派な人になんかならなくてもいい、感じの良い人になってください。」

 

日本という国も悪くないかもしれない。

 

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『フラニーとズーイ』

 

 先日『フラニーとズーイ』・JDサリンジャー村上春樹訳)を読んだ。物語のクライマックスでズーイがフラニーに対して(ズーイとフラニーは兄と妹)

「ラジオ番組に出演する僕らが靴を磨くのは、毎日のせわしない暮らしの中で僕らのラジオ番組を数少ない楽しみにしているファットレディーのためなのだよ。そしてファットレディーとはキリストその人なのだよ。」

と伝える場面で私の中にわきおこった感情は、村上春樹氏の『風の歌を聴け』の文庫版144ページでディスクジョッキーが

「僕は・君たちが・好きだ。」

と言う場面で味わった感情とそっくり同じだった。村上春樹氏が『フラニーとズーイ』を訳したのは「風の歌を聴け」の執筆後だが、それ以前に村上春樹氏はこの作品を読んでいたのではないだろうか?そして『風の歌を聴け』の中でその感情を装い新たに提示したのではないか?私が『風の歌を聴け』で味わった感情は何十年か前にサリンジャーによって汲み出されていたものだったのだろう。そう考えてみると我々が現代小説を読む際に湧き起こる感動のあらかたは、すでに古典によって汲み上げられたものなのかもしれない。それともまだ汲み尽くされていない感情があるのだろうか?そういった感情を新たに汲みだすことを文学のフロンティアを開拓すると表現するのだろうか?そして、そういう作品に対して賞が与えられるのだろうか?社会の発展に伴い、汲み尽くされていない新たなテーマが生まれるのだろうか?だとしても、人間の抱く普遍的な感情・テーマはすでに古典で語りつくされてしまっている気がする。我々現代の人間はそれらをアップデイトするだけなのかもしれない。昔ある人が

「いわゆる恋愛ドラマの全ての原型は遡るとシェイクスピアに行き着く」

と言っていたのを思い出した。そこで、シェイクスピアの主な作品をあらすじだけでも読んでみようと思って調べていたら、シェイクスピアもやはり原型となる喜劇なり悲劇なりがあってそれを当世風にアレンジして脚本を書いたらしい。では、もっともっと元をたどってみるとどこに行き着くか?やはり『旧約聖書』だろうか。もしくはその原型となったといわれる『ギルガメッシュ叙事詩』?時間があったら『旧約聖書』をわかりやすく訳したものを読んでみたい。コーラン』も読んでみたい。

夜中にカップラーメンをすすりながら想った。

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OASIS 


 オアシスというロックバンドが好きだ! 特に『Live Forever』という曲の歌詞が好きだ。出だしがいい。 

Maybe I don't really want to know
How your garden grows
As I just want to fly

正直な話、
お前のことなんてどうだっていいんだよ
ただ俺は飛び去りたいだけ

 この歌詞の何が好いって正直なところだ。 オアシスの歌詞はいつだって正直だ。 

すごく贅沢なことだと思う。 何故なら、この年になると「誰に対しても正直である」事は非常に難しいからだ。先日、学生時代からの友人に会った。正直になれた。ほんの数時間だったがすごく幸せな時間だった。「幸せ」もしくは「贅沢」の定義は人それぞれだろうが、正直になれる誰かがいるというのは間違いなくその一つだろう。

 さて、ここで問いたい。

Are you happy  now?

 

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