どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

『〇〇時代から好きでした。』

 「『〇〇時代から好きでした。』っていうある現代美術家のキャッチコピーがあるんだけど、この〇〇に何が入ると思う?」

こんな質問を授業の合間にしたことがある。多くが「青春時代」とか「中学時代」と答える中でただ一人

 「戦国時代!」

 と答えた子がいた。「んなわけねーだろ!」とほかの生徒からブーイングを浴びていたが、実は一番的を射ていたのはこの答え。正解は「江戸時代から好きでした。」

(『この人ゴミを押しわけて、早く来やがれ、王子さま』イチハラヒロコより)

  これが「中学時代」とか「青春時代」だとありきたりだが、「江戸時代」からというところがこのキャッチコピーの面白み。「一体どんだけ好きなんだよ!」とツッコミみが生じる余地がある。

 さて何の話かというと「AI」、人工知能だ。今、人工知能が面白い。自動車運転の人工知能とか、調理の人工知能とか、囲碁人工知能とか、兵器に使われる人工知能とか、詳しいことはわからないがとにかくすごい。いろんな人工知能があっていい?(兵器?)本当にいいのか?と思うのだが、もし私が人工知能を創れるなら

 「江戸時代から好きでした。」

 くらい言えるのを創りたい。非常に高度なコミュニケイションだと思う。「江戸」という発想は普通出てこない。いわゆる大喜利(文脈【常識】を踏まえた上での意図的なずらし)をディープラーニング?することで、できるようになるのだろうか?とにかく

江戸時代から好きでした。」

とか言われたら、相手が人工知能でもちょっと心をくすぐられる。

このようにユーモアにあふれた人工知能が欲しい!創れるものなら創りたい! 

毎日が楽しくなること間違いなしだ。(笑)

 PS

「あたしだって若いころわね、そりゃもてたんだから!」

「それは石器時代の話ですか?」(笑)

 

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意味なんて・・・

意味なんて・・・

 

「意味なんて♪

ないさ、暮らしがあるだけ♪

ただ腹を空かせて

君のもとへ帰るんだ♪」

 

星野源の『恋』という曲のワンフレーズが気にかかる。

詩的な言い方をすると心の琴線に触れる。

 

私くらいの年になって独身の友達は

仕事なり、趣味なり、

各々の面で社会的「意味・意義」の

あることをしようとしている。   

自身の仕事・趣味を深堀してそれなりの成果を上げているのだ。

「一人暮らしで自由に使える時間が余りある」

というのも一つの理由だ。

家族がいない分その時間を自分のために費やせる。

当然といえば当然だ・・・

僭越ながら私のブログも同じだと思う。

 

ただこの歌詞を聴いて妙に心にひっかかるのは

「意味とか意義」なんて大それたことなくてもいいから

ごく当たり前の暮らしを手に入れる機会は

一度ならずあったのにという

いわば後悔の念からだ。

 

There   is   no  use  crying  over  spilt  milk.

「腹水盆に返らず」

とはよく言ったもので

まあ、過ぎたことは仕方ない。

 

と頭で理解していても、

それでもこのフレーズにひっかかるのは

感情を理性で統御することの難しさからだろう。

 

最近ウォーレン・バフェットという投資家についての書籍を読むが

彼の非凡さはいわゆるIQの高さではなく、

きっとこの「確固たる理性の力」にあるのだろう。

 

見習いたいような

見習いたくないような

見習わねばならぬような

 

複雑な心境だ。

 

別に投資で一儲けしようとか言うそういう魂胆ではない(笑)。

 

ただ、そんなことを思った。

 

カップラーメンをすすりながら・・・

 

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不惑

 先日ウォーレンバフェット氏(世界屈指の投資家)についての本を読んだ。

バフェット氏曰く、投資に向いているのは「独立思考」のできる人間だと。「独立思考」とは群集心理から独立して思考できる人間。わかりやすい例を用いると

「王様は裸だ!」

と言える人間との事。

「それって子供じゃん。(笑)」

と思った。同時に、いい大人になってもそれができたのが(敢えて行ったのが)

ソクラテス」(古代ギリシャアテネの哲学者、無知の知を提唱した) 

なのではないか、とも思った。

ソクラテスを扱った光文社文庫を数冊読んでの感想。)

疑問に思うのは「王様は裸だ!」といった子供のその後・・・

おとがめはなかったのか?

まっとうな大人になれたのか?

ちなみにソクラテスの最後については残念ながら周知のとおりだ。

(ポリスの価値観を揺るがせたとの罪で毒杯をあおって刑死)

彼を慕う友人たちの力で国外に逃れることも可能だったらしいが、敢えて死を選んだらしい。そこにはある種の美学がある。このソクラテスの生き方と対照的なのが

「仕立て屋」

の生き方だ。人の(群衆)心理というものを実によく理解し、そこに介入してくる。

服ができたら大金せしめてとんずらだ。実に賢い生き方と言える。

 

さて、ここで問題だ。美しく生きることと、賢く生きることは

時に背反するのではないか?ちょっと昔に松浦亜弥さんが楽曲『ねーえ』の中で

「♪迷うな、セクシーなの♪キュートなの♪どっちが好きなの?♪」

と歌っていた。この場合、相手が松浦亜弥さんであればどちらでもいいのだが・・・

 

To  live  beautifully  or  to  live  smartly

That  is  the  problem.

 

美しく生きるべきか

賢く生きるべきか

 

不惑にして

惑わずにはいられないのだ・・・

孔子の言葉「四十にして惑わず」より)

 

ちなみに「馬鹿」という言葉の語源を調べてみると面白い。

このテーマをなんと2000年以上昔にあつかっている。

中国という国の文化は確かに偉大だ。

 

もう一つちなみに

英国人作家のジョージ・オーウェルもやはりこのテーマを

1948年に出版された『1984年』の中であつかっている。

英国もやはり偉大だ。

 

最後に昭和から平成にかけての日本の国民的ドラマ『3年B組金八先生』の中で

武田哲也さん演じる坂本金八卒業する生徒たちに対して述べている。

「立派な人になんかならなくてもいい、感じの良い人になってください。」

 

日本という国も悪くないかもしれない。

 

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『フラニーとズーイ』

 

 先日『フラニーとズーイ』・JDサリンジャー村上春樹訳)を読んだ。物語のクライマックスでズーイがフラニーに対して(ズーイとフラニーは兄と妹)

「ラジオ番組に出演する僕らが靴を磨くのは、毎日のせわしない暮らしの中で僕らのラジオ番組を数少ない楽しみにしているファットレディーのためなのだよ。そしてファットレディーとはキリストその人なのだよ。」

と伝える場面で私の中にわきおこった感情は、村上春樹氏の『風の歌を聴け』の文庫版144ページでディスクジョッキーが

「僕は・君たちが・好きだ。」

と言う場面で味わった感情とそっくり同じだった。村上春樹氏が『フラニーとズーイ』を訳したのは「風の歌を聴け」の執筆後だが、それ以前に村上春樹氏はこの作品を読んでいたのではないだろうか?そして『風の歌を聴け』の中でその感情を装い新たに提示したのではないか?私が『風の歌を聴け』で味わった感情は何十年か前にサリンジャーによって汲み出されていたものだったのだろう。そう考えてみると我々が現代小説を読む際に湧き起こる感動のあらかたは、すでに古典によって汲み上げられたものなのかもしれない。それともまだ汲み尽くされていない感情があるのだろうか?そういった感情を新たに汲みだすことを文学のフロンティアを開拓すると表現するのだろうか?そして、そういう作品に対して賞が与えられるのだろうか?社会の発展に伴い、汲み尽くされていない新たなテーマが生まれるのだろうか?だとしても、人間の抱く普遍的な感情・テーマはすでに古典で語りつくされてしまっている気がする。我々現代の人間はそれらをアップデイトするだけなのかもしれない。昔ある人が

「いわゆる恋愛ドラマの全ての原型は遡るとシェイクスピアに行き着く」

と言っていたのを思い出した。そこで、シェイクスピアの主な作品をあらすじだけでも読んでみようと思って調べていたら、シェイクスピアもやはり原型となる喜劇なり悲劇なりがあってそれを当世風にアレンジして脚本を書いたらしい。では、もっともっと元をたどってみるとどこに行き着くか?やはり『旧約聖書』だろうか。もしくはその原型となったといわれる『ギルガメッシュ叙事詩』?時間があったら『旧約聖書』をわかりやすく訳したものを読んでみたい。コーラン』も読んでみたい。

夜中にカップラーメンをすすりながら想った。

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OASIS 


 オアシスというロックバンドが好きだ! 特に『Live Forever』という曲の歌詞が好きだ。出だしがいい。 

Maybe I don't really want to know
How your garden grows
As I just want to fly

正直な話、
お前のことなんてどうだっていいんだよ
ただ俺は飛び去りたいだけ

 この歌詞の何が好いって正直なところだ。 オアシスの歌詞はいつだって正直だ。 

すごく贅沢なことだと思う。 何故なら、この年になると「誰に対しても正直である」事は非常に難しいからだ。先日、学生時代からの友人に会った。正直になれた。ほんの数時間だったがすごく幸せな時間だった。「幸せ」もしくは「贅沢」の定義は人それぞれだろうが、正直になれる誰かがいるというのは間違いなくその一つだろう。

 さて、ここで問いたい。

Are you happy  now?

 

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選択と集中

選択と集中」とはビジネス用語だが 

(限りある資源を得意な分野に集中することで、その分野では負けないこと)

 結婚生活にも応用できると思う。女性の社会進出が叫ばれている昨今、恐縮だが、

 「一方が家庭や育児に専念することで、もう一方が仕事に専念する」

そういう意味での「選択と集中」(役割分担)もありではないかと・・・。もちろん共働きを否定するつもりはないが・・・。つまり、何が言いたいかというと、私などは稼ぎの良い嫁さんを見つけて早く「専業主夫」になりたいな。という落ち(笑)

 

でも、一理あると思いませんか?

 

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simple thinking

シンプルに考えることは意外に難しい。
何故か?
情報が氾濫しているからだ。
本質はいつだって単純だと思うのだが・・・
今回の米大統領選である。
いろいろな切り口があるようだが
あえて単純に≪経済≫という視点でとらえてみる。
そこで、今回は
「自由」と「平等」を対立する概念として定義する。(経済という視点から)
「自由」は自由競争の自由。
つまり経済的格差がいくら広がろうと自由競争なのだからかまわないという概念。
これに対し
「平等」は結果の平等。つまり経済的格差の少ない社会を目指す概念。

 

自由-------------------------------------------・-------------------------------------------平等

 

これがどちらに傾きすげても共同体「国家」は破たんに向かう。
それは歴史が証明している。
「平等」に傾きすぎて破たんした例が旧ソ連である。説明の必要はないと思う。
「自由」に傾きすぎて破たんした例がフランス革命である。
当時は人口の3%の第一身分、第2身分(貴族と聖職者)が富を独占し、
しかも免税特権を持っていた。
この特権階級から税を取るべきだ(対外戦費を賄うため)
というところから革命は始まっていくのだが・・・

つまり、何が言いたいかというと
「自由」と「平等」という対立する概念のどちらかが正しいのではなく、
常にそのバランスが大切なのだ。
もし、「平等」に傾きすぎているならば「自由」にシフトすべきだし、
もし、「自由」に傾きすぎているならば「平等」にシフトすべきなのだ。

さて、今回のアメリカ大統領選だが、
「1%の富裕層が富のあらかたを独占し、残り99%が残りを分けあう」
とよく耳にする。
幾分かの強調はあるのだろうがおおむね実態を表しているのだろう。
だとすれば、「自由」にシフトすべきなのか、
それとも「平等」にシフトすべきなのか?
答えは火を見るよりも明らかだ。
そして、二大政党制のアメリカでより「平等」側に立脚するのが、
もちろん「民主党」である。
その「民主党」の代表がヒラリー・クリントンだ。
TPP、移民問題、女性問題、メールの私的利用、レイシズムにつながる発言、
等々いろいろな情報が飛び交ったが、
トランプ氏とクリントン氏どちらに投票すべきか「残りの99%の人たち」にとって
それほど難しい選択ではないと思うのだが・・・

私は決して政治に詳しいわけではない。
ただ、物事の本質はいつも単純だと思っている。
大切なのはあふれる情報から本質を見極める力なのではないだろうか?

何もわかってないのに偉そうなこと言うなと思う方はコメントをください。
お待ちしております。

今回落ちはありません。あえて言うならヒラリーが落ちませんように!

 

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