どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

『フラニーとズーイ』

 

 先日『フラニーとズーイ』・JDサリンジャー村上春樹訳)を読んだ。物語のクライマックスでズーイがフラニーに対して(ズーイとフラニーは兄と妹)

「ラジオ番組に出演する僕らが靴を磨くのは、毎日のせわしない暮らしの中で僕らのラジオ番組を数少ない楽しみにしているファットレディーのためなのだよ。そしてファットレディーとはキリストその人なのだよ。」

と伝える場面で私の中にわきおこった感情は、村上春樹氏の『風の歌を聴け』の文庫版144ページでディスクジョッキーが

「僕は・君たちが・好きだ。」

と言う場面で味わった感情とそっくり同じだった。村上春樹氏が『フラニーとズーイ』を訳したのは「風の歌を聴け」の執筆後だが、それ以前に村上春樹氏はこの作品を読んでいたのではないだろうか?そして『風の歌を聴け』の中でその感情を装い新たに提示したのではないか?私が『風の歌を聴け』で味わった感情は何十年か前にサリンジャーによって汲み出されていたものだったのだろう。そう考えてみると我々が現代小説を読む際に湧き起こる感動のあらかたは、すでに古典によって汲み上げられたものなのかもしれない。それともまだ汲み尽くされていない感情があるのだろうか?そういった感情を新たに汲みだすことを文学のフロンティアを開拓すると表現するのだろうか?そして、そういう作品に対して賞が与えられるのだろうか?社会の発展に伴い、汲み尽くされていない新たなテーマが生まれるのだろうか?だとしても、人間の抱く普遍的な感情・テーマはすでに古典で語りつくされてしまっている気がする。我々現代の人間はそれらをアップデイトするだけなのかもしれない。昔ある人が

「いわゆる恋愛ドラマの全ての原型は遡るとシェイクスピアに行き着く」

と言っていたのを思い出した。そこで、シェイクスピアの主な作品をあらすじだけでも読んでみようと思って調べていたら、シェイクスピアもやはり原型となる喜劇なり悲劇なりがあってそれを当世風にアレンジして脚本を書いたらしい。では、もっともっと元をたどってみるとどこに行き着くか?やはり『旧約聖書』だろうか。もしくはその原型となったといわれる『ギルガメッシュ叙事詩』?時間があったら『旧約聖書』をわかりやすく訳したものを読んでみたい。コーラン』も読んでみたい。

夜中にカップラーメンをすすりながら想った。

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OASIS 


 オアシスというロックバンドが好きだ! 特に『Live Forever』という曲の歌詞が好きだ。出だしがいい。 

Maybe I don't really want to know
How your garden grows
As I just want to fly

正直な話、
お前のことなんてどうだっていいんだよ
ただ俺は飛び去りたいだけ

 この歌詞の何が好いって正直なところだ。 オアシスの歌詞はいつだって正直だ。 

すごく贅沢なことだと思う。 何故なら、この年になると「誰に対しても正直である」事は非常に難しいからだ。先日、学生時代からの友人に会った。正直になれた。ほんの数時間だったがすごく幸せな時間だった。「幸せ」もしくは「贅沢」の定義は人それぞれだろうが、正直になれる誰かがいるというのは間違いなくその一つだろう。

 さて、ここで問いたい。

Are you happy  now?

 

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選択と集中

選択と集中」とはビジネス用語だが 

(限りある資源を得意な分野に集中することで、その分野では負けないこと)

 結婚生活にも応用できると思う。女性の社会進出が叫ばれている昨今、恐縮だが、

 「一方が家庭や育児に専念することで、もう一方が仕事に専念する」

そういう意味での「選択と集中」(役割分担)もありではないかと・・・。もちろん共働きを否定するつもりはないが・・・。つまり、何が言いたいかというと、私などは稼ぎの良い嫁さんを見つけて早く「専業主夫」になりたいな。という落ち(笑)

 

でも、一理あると思いませんか?

 

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simple thinking

シンプルに考えることは意外に難しい。
何故か?
情報が氾濫しているからだ。
本質はいつだって単純だと思うのだが・・・
今回の米大統領選である。
いろいろな切り口があるようだが
あえて単純に≪経済≫という視点でとらえてみる。
そこで、今回は
「自由」と「平等」を対立する概念として定義する。(経済という視点から)
「自由」は自由競争の自由。
つまり経済的格差がいくら広がろうと自由競争なのだからかまわないという概念。
これに対し
「平等」は結果の平等。つまり経済的格差の少ない社会を目指す概念。

 

自由-------------------------------------------・-------------------------------------------平等

 

これがどちらに傾きすげても共同体「国家」は破たんに向かう。
それは歴史が証明している。
「平等」に傾きすぎて破たんした例が旧ソ連である。説明の必要はないと思う。
「自由」に傾きすぎて破たんした例がフランス革命である。
当時は人口の3%の第一身分、第2身分(貴族と聖職者)が富を独占し、
しかも免税特権を持っていた。
この特権階級から税を取るべきだ(対外戦費を賄うため)
というところから革命は始まっていくのだが・・・

つまり、何が言いたいかというと
「自由」と「平等」という対立する概念のどちらかが正しいのではなく、
常にそのバランスが大切なのだ。
もし、「平等」に傾きすぎているならば「自由」にシフトすべきだし、
もし、「自由」に傾きすぎているならば「平等」にシフトすべきなのだ。

さて、今回のアメリカ大統領選だが、
「1%の富裕層が富のあらかたを独占し、残り99%が残りを分けあう」
とよく耳にする。
幾分かの強調はあるのだろうがおおむね実態を表しているのだろう。
だとすれば、「自由」にシフトすべきなのか、
それとも「平等」にシフトすべきなのか?
答えは火を見るよりも明らかだ。
そして、二大政党制のアメリカでより「平等」側に立脚するのが、
もちろん「民主党」である。
その「民主党」の代表がヒラリー・クリントンだ。
TPP、移民問題、女性問題、メールの私的利用、レイシズムにつながる発言、
等々いろいろな情報が飛び交ったが、
トランプ氏とクリントン氏どちらに投票すべきか「残りの99%の人たち」にとって
それほど難しい選択ではないと思うのだが・・・

私は決して政治に詳しいわけではない。
ただ、物事の本質はいつも単純だと思っている。
大切なのはあふれる情報から本質を見極める力なのではないだろうか?

何もわかってないのに偉そうなこと言うなと思う方はコメントをください。
お待ちしております。

今回落ちはありません。あえて言うならヒラリーが落ちませんように!

 

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祈り

 以心伝心という言葉がある。

 例えばフットボールのチームでもオーケストラでも、職場でも、家族でも、

長い時間を共有していると口に出さずとも気心が伝わるようになる。

 そこには共有する無意識とでもいうべきものが生じる。

そしてそれがしっかりしているほどチームとして集団としてうまく機能する。

まさに以心伝心なのだ。

 脳の仕組みがまだ解明されないから想像の域を出ないのだが、

そのような仕組み、電気信号なのか化学物質なのか、

シンクロと呼ぶべきなのかわからないが、

そういう力が我々人間にも備わっている。

経験的にわかってきた。

経験的に。

(無論、動物には人間以上に備わっていると思われる。例えばイルカとか)
 

で、私事で恐縮なのだが最近職場で暇なときは、

「部所の皆さんがのびのび活き活き働けるように」

と心の中で考えている。

以心伝心で伝わればよいし、

伝わらなくても暇がつぶせて、どちらに転んでもよしだ。

 そんなことを続けていてある時、ふと気づいた。

これはひょっとして「祈り」という行為かと!

だとしたら「祈り」というのも馬鹿にできないぞと。

宗教とか神様がどうこうという話ではない。

私のうちは仏教だが私は自分の宗派すら知らない。

ついでに言うと日本史に詳しくないので宗派の違いもよくわからない。

 基本的に宗教に無頓着な人間だ。

だから宗教で出てくる「祈り」というのが私はなんだかよくわからなかった。

 だが、この以心伝心が「祈り」の根底にあるのだとしたら

ちょっと意味が分かる気がする。

 みんなで以心伝心しているのかもしれない。

 問題は何を以心伝心するかだ。

 私には世界の平和とまでは想像が及ばないが、

 せめて家族や友人や職場の人たちが活き活きとのびのびとしていて欲しいとは思う。

 これが私の「祈り」の及ぶ範囲なのかもしれない。

 この範囲がでかくなると人はそれをカリスマとか宗教と呼ぶのだろうか?

 もしかするとこういう力は子供のほうが大きいのかもしれない。

 なんせ大人になると目先のことでいっぱい、いっぱいだから。

 そう考えると「イマジン」という曲をつくったジョン・レノン

 すごい人だったんだなと思う。

 

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 何度も言うが私は宗教とか神様とかには興味はない。
 私が信じるとすればそれは「おやつ神様」だけだ(笑)。
(『おやつ①~⑤』おおおひなたごう著)より

http://www.badtaste.sakura.ne.jp/page_thumb221.html

漫画と本

 「漫画なんか読んでないで本を読め!」
と、言われて育ってきた。この言葉の背景には
≪漫画のほうが本よりも文化的に劣る≫
という認識があってのことと思う。本当にそうなのだろうか?考えてみた。よく言われるのが、本のほうが文字で認識する分、情報量が多いし、想像力を働かせる。だから本のほうが文化的に優れている。という説だ。確かにそうかもしれないが、それだったら「モナリザ」を美術館に展示する意味はなくなる。文章で

「この絵は16世紀初頭、イタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチという人により描かれ、中年女性の上半身がやや斜め正面から見た構図になっており、その女性は不思議な笑みを浮かべており云々。」
とでも描写して、あとは想像に任せればよいわけだ。極論すれば絵画の意味はなくなる。絵画と漫画の絵では価値が異なると考える方もいるだろうが、それは違うと思う。(『漫勉』NHK)を見る限り、漫画家の先生方も身を削って絵を描いている。魂のこもった絵だ。それに映画という表現手段が文化的に認められているのに、その原作となることが多々ある漫画が社会的に認められないのはおかしな話だ。要は漫画にしろ小説(本)にしろエンターテイメントであるのなら問題になるのは、どれだけ読者の心を震わせたか、心に響いたかだ。その表現形式が文字であれ、絵であれ、よいのではないだろうか?

 漫画が海外で認められて(クールジャパン)初めて自国の人間がその価値に気づくというのは浮世絵が海外でその価値を認められたのと同じで、何か少し情けない感じがする。自分の意志を持つためには自分に自信を持つことが必要なのだろうか?
 ちなみに私は自分の自信のなさについては自信がある(笑)。

 

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5歳のモネ

 NHKの『クローズアップ現代+』で相模原の障がい者施設での事件を扱っていた。

殺害犯の「障がい者は必要ない」という意思表示に対し、ジャーナリストの池上彰氏が

「人権の大切さを学ばねばならない」

という趣旨のことを述べておられた。私も高校の授業で

「誰もが生まれながらにして持つ人権」

という文言を暗記した覚えがある。「人権」という概念の成立過程をもっとよく学んでおけばよかった。今からでも遅くはないので、ロック?ルソー?をちゃんと読んでみようと思う。今わかる範囲で「人権」について考えてみた。 

 先日モネの絵が見たくなって(決して絵画に詳しいわけでも何でもないが)「モネ」で画像検索した。たくさん出てきた中でひときわ心惹かれた絵があった。調べてみたら、それはモネ本人の絵ではなく

「5歳のモネ」

と評された当時5歳の女の子の絵だった。この女の子は自閉症で人と目を合わせようとせず、言葉を発しなかった。だが、親が絵具を与えると、とても5歳の子供とは思えない絵を描いた。描くという表現手段を獲得してからこの子は徐々に心を開き、言葉も話すようになっていったらしい。 

 この女の子には才能がある。それは本当に素晴らしいことだ。両親もそれを発見できてうれしかったと思う。ただ、もし絵が描けなかったとして、もしくは下手だったとして、そのことでこの女の子に対する両親の思いは変わっただろうか? 

 そんなことはないと思う。世間の評判とか、損得勘定とは別のところで、この女の子は両親にとって大切な存在だと思う。おそらくそれが愛情というものだろう。愛情に実体はない。愛情とは関係だ。それは血縁とは限らない。血のつながりがなくても強く深く結びついた関係はあるからだ。どれだけ深く、かつ多くかかわってきたか、つまりコミュニケーションの密度と量が問題なのだ。コミュニケーションの密度と量に比例して愛情も深まるのかもしれない。何が言いたいかというと、障害があろうがなかろうが、血縁関係があろうがなかろうが、コミュニケイトする誰かがいる、つまり愛情を注ぐ誰かがいる以上、すべての人に価値があるのだということだ。その意味で「障がい者は必要ない」という発言は間違っている。 

 健常者であれ、障がい者であれ、誰にでも「人権」があるからそのような考えは許されない。と言えばそのとおりだ。ただ、この「5歳のモネ」から考えるに、「人権」という概念を実質的に成り立たせているのは、やはり「その人と関わりをもつ誰か」の存在なのではないか。たった一人で誰ともかかわることなく生きている人がいたとする。この人に「人権」はあるだろうか。もちろんある、生まれながらに持つのだから。だがその場合、「人権」は非常にあやふやなものになってしまうのではないか?たとえ憲法なりなんなり(自然権)が保証していてもだ。だからこそ孤独な人を作るべきではない。人は何らかの形で誰かとつながるべきなのだ。誰でも趣味や共通の話題を分かち合えるように、孤独な人は孤独という状況を分かち合える誰かが必ずいるはずだ。と思いたい。私自身この文章を書いているのは誰かとつながりたいからかもしれない。

 ついでに言うと、それが将来的に印税生活につながるなら、もう言うことはない(笑)

www.cnn.co.jp

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