どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

漫画と本

 「漫画なんか読んでないで本を読め!」
と、言われて育ってきた。この言葉の背景には
≪漫画のほうが本よりも文化的に劣る≫
という認識があってのことと思う。本当にそうなのだろうか?考えてみた。よく言われるのが、本のほうが文字で認識する分、情報量が多いし、想像力を働かせる。だから本のほうが文化的に優れている。という説だ。確かにそうかもしれないが、それだったら「モナリザ」を美術館に展示する意味はなくなる。文章で

「この絵は16世紀初頭、イタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチという人により描かれ、中年女性の上半身がやや斜め正面から見た構図になっており、その女性は不思議な笑みを浮かべており云々。」
とでも描写して、あとは想像に任せればよいわけだ。極論すれば絵画の意味はなくなる。絵画と漫画の絵では価値が異なると考える方もいるだろうが、それは違うと思う。(『漫勉』NHK)を見る限り、漫画家の先生方も身を削って絵を描いている。魂のこもった絵だ。それに映画という表現手段が文化的に認められているのに、その原作となることが多々ある漫画が社会的に認められないのはおかしな話だ。要は漫画にしろ小説(本)にしろエンターテイメントであるのなら問題になるのは、どれだけ読者の心を震わせたか、心に響いたかだ。その表現形式が文字であれ、絵であれ、よいのではないだろうか?

 漫画が海外で認められて(クールジャパン)初めて自国の人間がその価値に気づくというのは浮世絵が海外でその価値を認められたのと同じで、何か少し情けない感じがする。自分の意志を持つためには自分に自信を持つことが必要なのだろうか?
 ちなみに私は自分の自信のなさについては自信がある(笑)。

 

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5歳のモネ

 NHKの『クローズアップ現代+』で相模原の障がい者施設での事件を扱っていた。

殺害犯の「障がい者は必要ない」という意思表示に対し、ジャーナリストの池上彰氏が

「人権の大切さを学ばねばならない」

という趣旨のことを述べておられた。私も高校の授業で

「誰もが生まれながらにして持つ人権」

という文言を暗記した覚えがある。「人権」という概念の成立過程をもっとよく学んでおけばよかった。今からでも遅くはないので、ロック?ルソー?をちゃんと読んでみようと思う。今わかる範囲で「人権」について考えてみた。 

 先日モネの絵が見たくなって(決して絵画に詳しいわけでも何でもないが)「モネ」で画像検索した。たくさん出てきた中でひときわ心惹かれた絵があった。調べてみたら、それはモネ本人の絵ではなく

「5歳のモネ」

と評された当時5歳の女の子の絵だった。この女の子は自閉症で人と目を合わせようとせず、言葉を発しなかった。だが、親が絵具を与えると、とても5歳の子供とは思えない絵を描いた。描くという表現手段を獲得してからこの子は徐々に心を開き、言葉も話すようになっていったらしい。 

 この女の子には才能がある。それは本当に素晴らしいことだ。両親もそれを発見できてうれしかったと思う。ただ、もし絵が描けなかったとして、もしくは下手だったとして、そのことでこの女の子に対する両親の思いは変わっただろうか? 

 そんなことはないと思う。世間の評判とか、損得勘定とは別のところで、この女の子は両親にとって大切な存在だと思う。おそらくそれが愛情というものだろう。愛情に実体はない。愛情とは関係だ。それは血縁とは限らない。血のつながりがなくても強く深く結びついた関係はあるからだ。どれだけ深く、かつ多くかかわってきたか、つまりコミュニケーションの密度と量が問題なのだ。コミュニケーションの密度と量に比例して愛情も深まるのかもしれない。何が言いたいかというと、障害があろうがなかろうが、血縁関係があろうがなかろうが、コミュニケイトする誰かがいる、つまり愛情を注ぐ誰かがいる以上、すべての人に価値があるのだということだ。その意味で「障がい者は必要ない」という発言は間違っている。 

 健常者であれ、障がい者であれ、誰にでも「人権」があるからそのような考えは許されない。と言えばそのとおりだ。ただ、この「5歳のモネ」から考えるに、「人権」という概念を実質的に成り立たせているのは、やはり「その人と関わりをもつ誰か」の存在なのではないか。たった一人で誰ともかかわることなく生きている人がいたとする。この人に「人権」はあるだろうか。もちろんある、生まれながらに持つのだから。だがその場合、「人権」は非常にあやふやなものになってしまうのではないか?たとえ憲法なりなんなり(自然権)が保証していてもだ。だからこそ孤独な人を作るべきではない。人は何らかの形で誰かとつながるべきなのだ。誰でも趣味や共通の話題を分かち合えるように、孤独な人は孤独という状況を分かち合える誰かが必ずいるはずだ。と思いたい。私自身この文章を書いているのは誰かとつながりたいからかもしれない。

 ついでに言うと、それが将来的に印税生活につながるなら、もう言うことはない(笑)

www.cnn.co.jp

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YES

 以前に比べてよく本を読むようになった。 いくらか(といってもわずかなものだが)読んでみてわかったのだが、私が面白いと思う本には共通点がある。みな文体がシンプルでリズミカルだ。 一文に形容詞が二つも三つもあったり、不必要に難解な言い回しがされていたりすると辟易してしまう。主語と述語がはっきりしないのも問題だ。 もっとも、外国作品に関しては訳者による違いが大きいと思われるが・・・。 

 「良い小説とは、普通の教育を受けた者であれば誰にでも読めるものだ。」とサマセットモームという小説家が述べている。私も賛成だ。文章であれ、家電であれ、良いものは常にシンプルだ。単純にそのほうがわかりやすい。 

 さてここからが本題なのだが、ここまで述べてきた通り、文章は簡素なほうが良いと仮定し、小説の無駄な装飾をそぎ落としてシンプルを極めた結果として残るのは何か?

題名を見て、勘のいい人はすでにお気づきと思われるが、そう、オノ・ヨーコさんなのだ。 ご存知の方も多いと思われるが、オノ・ヨーコジョン・レノンのなれそめが以下だ。

 彼女の個展に訪れたジョンが、部屋の中に脚立が置いてあるのを見つけ、それに登ってみると、上から虫眼鏡がつり下げられている。天井を見ると小さく「YES」とあったそうだ。〇と書くか✖と書くか、HelloにするかGoodbyにするか、あるいはもっと突拍子もないものにするかは人それぞれだろうが、ヨーコさんにとってはそれが「YES」だったわけで、そのようなヨーコさんにジョンはハートをキャッチされたのだろう。このように見てくるとオノ・ヨーコさんがそうだったように、小説も一つのメッセージなのだと思う。徹底的にNOを突きつけることででしか新たな希望は見えてこないという作家もいれば、途切れながらもYESは続くんだという作家もいる。人の業に対し最後には笑ってYESというのが古典落語なのかとも思う。それぞれに面白い。 笑いとメッセージと言えば私がこよなく愛するのが、小島よしおさんの「そんなの関係ねー!」だ。最近は子供に大うけだと聞いているがうなずける。子供はいつだってパンクだ。どうでもよい話だが、もしこれを英訳すると

Its   none   of   your   business  !  直訳(そんなの関係ねー!)

となるのだろうか?興味は尽きない(笑)。

PS.小島さん是非、海外進出を視野に入れてください。応援しています!

 

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相撲における八百長と北野武さんの発言に対して

 以前、北野武さんが相撲の八百長騒動の際に 「相撲における八百長は是か非か?」

という質問に対し、

「相撲は豊作を祝って奉納する儀式である。つまりスポーツではないのだから、八百長は非ではない。」

という趣旨の発言をされていた。北野さんのこの発言に対し、時間がかかったがやっと自分なりの答えが出た。以下に示したい。三段論法で説明すると

 

①「文明」が長続きするには「平和」であるに越したことはない。

②「平和」を持続させるためには「調和」が必要である。

③「調和」には「真剣勝負」はいらない

 

 つまり文明を長続きさせるためには「真剣勝負」は必要ないのである。裏返すと、平和な時と場所に暮らす人々は「真剣勝負」に飢えているともいえる。ローマ時代に剣闘奴隷がいたのも、現代社会で各種勝負事、フットボール、ボクシング、囲碁、将棋、チェス等々が盛んなのも、これら真剣勝負に飢えた人たちが、自身の満たされない思いを各々に託しているからではないだろうか?過去においても現代においても、いわゆる見世物としての勝負事のそれが存在意義なのではないか?であるならば、相撲がスポーツであれ、儀式であれ、肝心なのは

「相撲に想いを託す人がいるかどうか?」

ではないか?そこに想いを託している人がいるならスポーツであれ儀式であれ、その思いを裏切ってはならないと思う。そして相撲に想いを託す人は、いる。と思われる。 つまり八百長は非である。というのが私なりの結論だ。北野さんの意見を伺ってみたいところだ。ちなみに私は相撲に興味はない。だからどっちでもいい。

 NHKには申し訳ないが『笑点』のほうが大切だ。司会者も変わり、新たなメンバーも加わり、目が離せない。人を打ち負かすことよりも笑わせることのほうがよほど価値があると思うのも、恥ずかしながら事実だ。もっとも私自身は非常に口下手な人間ではあるが・・・(笑)

 

 

追記

 この文章は矛盾している。「平和」を持続させるためには「調和」が必要と述べている。にもかかわらず「北野武さん」という「権威」にアンチテーゼを示し、その意味で「調和」を乱しているからだ。

 自分でもこれは矛盾していると思った。そのままにしたのは、「調和」のみを重んじ、陽性の反骨精神をすべて排除してしまっては、社会から活力が失われてしまうのではないかと(偉そうにも)危惧したからだ。「調和」にばかり重きを置いていては、「平和」は保たれたとしても、社会は緩やかに衰退していってしまうのではないか?それが良い悪いは別として。社会が持続的に発展していくためには「保守」と「革新」の程よいバランスが必要だと思う。

 

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波田陽区

  「要するに、良心の呵責でしょ。」

 「ドストエフスキーの『罪と罰』読んだことある?」と尋ねた私に友人はさらりと答えた。「カッコイイなあ。」私は思わずうなった。『罪と罰』やら『カラマーゾフの兄弟』やらを読んだことがあると聞くと、それだけで何かすごい人のように思えてしまうから不思議だ。私も2度3度試みたがあまりの難解さに挫折して、結局は簡略化されたマンガ版を読んだきりだ。友人はそのドストエフスキー(19世紀ロシアの誇る文豪)を一刀両断した。まるで往年の波田陽区のように。

 だがちょっとまて、いったいドストエフスキーの小説の何がそんなにすごいのか?ドストエフスキー自身が非常に破天荒な人生を送った人だという話は聞いたことがある。だが作家と作品は別のものだし、そもそも小説とはエンターテインメントだ。であるならば読むことが楽しくなくては意味がない。読んでいてはっとさせられるような箇所があったり、登場人物に自身を重ね合わせたり、とにかく読むという行為が楽しくなければ意味がない。ところが私にとってドストエフスキーの小説はそうではなかった。楽しくないのだ。時代背景、社会背景に対する理解不足、読解力の不足。何よりも忍耐力の不足等々、私に問題があると言われればそれまでだ。訳者による違いもあるだろう。ロシア語の原典を読めたらまた違ったのかもしれないが、それは致し方ない。ただ、誤解を恐れずに言わせてもらうならば、勉強しないと読めない小説なんてどうかと思うのも確かだ。読んでいて勉強したいと思うのなら話は別だが。

 そもそも文章を書くのは、日記やメモを別とすれば、「伝える」という行為に他ならない。自分の思いを誰かに伝えたいというのが根底にあると思う。卑近な例ながら私だってそうだ。「届けこの想い」。これは作家に限らず表現者であるならば当然の事だと思う。特定の相手にのみ解ればいいのならそれは暗号でも恋文でも好きにしてほしい。ただ表現者であるのならば、できるだけ多くの人に伝えてなんぼのはずだ。であるならば難しい表現で難しいことを書くよりも、より優しい表現で難しいことを伝えるほうが、はるかに冴えているのではないだろうか。テーマの重い軽いは表現の難解さとはまた別の問題だ。友人の一言は私の中でドストエフスキーを相対化してくれた。

 と、さんざん講釈を垂れたうえで、読んでくださっている方々どうもありがとうございます。私のブログも今回で8回目になります。8回目にもなるといろいろな形で反響があります。

 

 中略

 

 また、多くの方々にお読みいただいておりますが、やはり一番の読者は両親のようです。最近面白い発見がありました。父親というのはいずれは超えてくものだけど、母親というのは生涯超えられない存在だということです。父親というのは私の文章を褒めもすれば、けなしもしますし、嫉妬もします。ところが母親というのはこうです。

「まあ、落語家なんかも、ちょっとした文章は書けちゃうもんだしね。」(彼女は今落語とそこにまつわる人間模様にはまっています。)

 一刀両断です。まるで波田陽区のように。まあ、この人の腹から出てきたと思えばそれも仕方ないかと妙に納得してしまいます。女性の持つこういった母性というか本能のようなものはすごいなと感じた次第です。もう少し早く気づいていたら(気づいていても認めたくないということもありますが)また別の人生もあったかもしれないとも思います。

 まあそんなわけで今回何を言いたいかというと私は波田陽区が好きだということです。先日『しくじり先生』というTV番組に出演しているのを久しぶりに見ました。今度は芸能人なんかきってないで、権威とかつまらない常識とかそういうものをきりまくってほしいです。頑張れ!波田陽区

 

波田陽区に切ってほしいものを3つ考えよう!

例:「たけちゃん、あなたのへその緒、波田陽区に切ってもらったのよ!」

例:「けい子、あの人への未練、波田陽区に切ってもらっちゃいなよ!」

 

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愛のままに、わががままに・・・

 大学を卒業して就職浪人していたころの話。

同じく就職できずに院に進んだ友人とドライブしていて、

仙台市内で一番大きな四つ角に停車した際の会話。

私「こいつはまさにヒューマンスクランブル!(『人間交差点弘兼憲史著より)。」

友人「僕らは今日も信号待ちさ。(笑)」

今思い返すとなんと親不孝なダメ学生だったか。親にはとても聞かせられない。

 ただ、この友人単なるダメ院生ではない。ドライブつながりで別の話もある。

 ある日、市内をドライブしていたら道端に花束が手向けられていた。

それを見た我々

私「自己満足だな。」

友人「事故だけにな。」

私「そうそうその通り!」

 自分でも無意識のうちに口をついた言葉に対し、

友人が間髪もおかずに返してきたので驚いた

「こいつの言語中枢はどうなっているんだ?」

 よく鼻歌を歌っているときに思いもよらぬ自身の心情に気付くときがある。

無意識のうちに脳の言語をつかさどる部位が働いているのだろう。

YUKI(元ジュディ&マリー)はメロディーに合わせて

「はなもげらー」と口ずさんでいるうちに歌詞ができる

と雑誌のインタビューで答えていたが・・・。

無意識と言語の関係はとても興味深い。

作曲家や作詞家の脳はどうなっているのだろう。

別の機会に考えたい。

 その後どういうわけか友人も私も他人を指導するような立場になった。

ある時、故あって、この友人とのやり取りを授業で話したことがある。

その際

「その花を見て私は『〇〇満足』と言ったんだ。それを聞いた友人は『まさに〇〇だけにな。』と言った。さて〇〇に入る同じ2文字は何だかわかる?」

周囲がきょとんとする中一人だけ「わかった!≪ジコ≫だー」と答えた生徒がいた。ある意味鋭すぎる言語センスだ。

鈍すぎるのもなんだが、鋭敏すぎると自らを傷つけることがある。

普通に幸せになって欲しい・・・。 

 今思うと十代の生徒たちに対して厳しすぎる認識を強いたかもしれない。

「人は死んでしまえばそれまでで、それに花を手向けるのは結局のところ残された者の自己満足にすぎない。」

真理を悟ったような気になっていた。なんと傲岸不遜な態度か。

ただあのころ我々は若かった。

というより幼かった。

あの時の事故の犠牲者と遺族の方々にはこの場を借りて心からお詫びいたします。

申し訳ございませんでした。

 それとは別に歴史の授業としては一つ疑問が残る。

「なぜ、いつごろから人は死者に花を手向けるようになったのか?」

それまでは死んだら終わりだった。泣いてもしょうがなかった。

しかしいつの頃からか残された者はそれに納得できなくて、

花を手向ける事で自分の気持ちにけりをつけたのだろう。

その意味で人は≪わがまま≫になった。

しかし、この≪わがままさ≫が人の人たる所以なのではないか?

もしかすると、

そのころ(およそ20万年前)≪ヒト≫は≪人≫になったのかもしれない。

そんなことを考えた。

あのころ友人も同じような事を考えていたのかもしれない。

でなければ ,

あんなにさらりと返せなかったろうから。・・・フカイ奴だ。

 

 ~愛のままに、わがままに、僕は君だけを傷つけない~ Bz稲葉浩志

 ※声に出して歌ってみよう!

 

 

 

 

俯瞰

 人生であれ、

人類全体の歴史であれ、

≪俯瞰≫してみることは面白い。

全体像をつかむことで、

当たり前だと思っていた物事を相対化できるからだ。

昔、歴史の授業で

『世界がもし100年の物語だったら』(リチャード・マクドナルド著)

という本を教材に用いたことがある。

「人類が何万年前に生まれたか」などという年号暗記なんかよりも、

まず一回目の授業で、

この≪俯瞰≫という視点に触れてほしかったからだ。

(ちなみにこの本では99年目の最後の1か月にヒトが誕生する)

どこまで意図が伝わったかはわからないが、

今になってみるといろんな意味で「良くも悪くも」だった。

≪俯瞰≫して全体像をつかむよりも、

目の前の事に疑念など挟まず、

全力投球する。

幸せってそういうものかもしれない、

と思える節があったからだ「良くも悪くも」。  

 とにかく時は流れて、

私はといえば、自身の感情の揺らぎすら≪俯瞰≫しているような毎日だ。

お世辞にも健全とは言えない。

 さて、前置きが長くなりましたがここまでこのブログをお読みいただいている方々、どうもありがとうございます。これまでに出てきた

『図書と見方と坊ちゃんと』

『              』

『革命』

の3つは今から十数年前、私が20代半ばに書いた文章に加筆修正したものです。

今読み返してみると、清々とした語り口で若々しいテーマの文章とも言えますし

(青い、青いな、青くせえにおいがプンプンするぜえ。

逆境ナイン第1巻より、島本和彦著』)

とも思います。

若干の照れは隠せません。

今後ミドルエイジを迎えるにあたり、

もう少し大人の文章を書ければなあともいます。

 それからブログを始めるにあたって書いた『矛盾』という短文。

こちらは本当になんとなく書いたのですが、

実にそのなんとなくが大切で、

三つ子の魂百までとも申しますし、

これが私の生涯のテーマなのかなとも思うのです。

作家にしろ芸術家にしろ科学者にしろ

一人の人間が生涯かけて追いかけられるテーマなんてそうそう多いものではありません。

私も今後いろいろなテーマについて文章を書いてみたいと思いますが、

結局はこの『矛盾』に収斂してくるような気がします。

とはいえ一方でパブロピカソのように90近くになっても

精力的に活動した芸術家もいるわけで、

私もパソコンとネット環境が整っている限りできるだけ長く、

多くのテーマに挑戦したいと思います。

また、その結果として又吉越えができれば言うことはありません(笑)。

ここまで読んでくださった皆さんには、ぜひ今後ともお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。

 

  

 目の見えない虫は、球の表面を這っているとき、自分が通ってきた道筋が曲がっていることに気づかない。わたしがそれを発見できたのは幸運だった。

                             (アインシュタイン

 

 目の見えない虫の気持ちは、目の見えない虫自身にもわからないのかもしれない、ただ彼の精神と身体が燃焼していたのならそれは生物として豊かなことだと思う。

                                                                                                           (諸田 亮)

 

 

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