どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

YES

 以前に比べてよく本を読むようになった。 いくらか(といってもわずかなものだが)読んでみてわかったのだが、私が面白いと思う本には共通点がある。みな文体がシンプルでリズミカルだ。 一文に形容詞が二つも三つもあったり、不必要に難解な言い回しがされていたりすると辟易してしまう。主語と述語がはっきりしないのも問題だ。 もっとも、外国作品に関しては訳者による違いが大きいと思われるが・・・。 

 「良い小説とは、普通の教育を受けた者であれば誰にでも読めるものだ。」とサマセットモームという小説家が述べている。私も賛成だ。文章であれ、家電であれ、良いものは常にシンプルだ。単純にそのほうがわかりやすい。 

 さてここからが本題なのだが、ここまで述べてきた通り、文章は簡素なほうが良いと仮定し、小説の無駄な装飾をそぎ落としてシンプルを極めた結果として残るのは何か?

題名を見て、勘のいい人はすでにお気づきと思われるが、そう、オノ・ヨーコさんなのだ。 ご存知の方も多いと思われるが、オノ・ヨーコジョン・レノンのなれそめが以下だ。

 彼女の個展に訪れたジョンが、部屋の中に脚立が置いてあるのを見つけ、それに登ってみると、上から虫眼鏡がつり下げられている。天井を見ると小さく「YES」とあったそうだ。〇と書くか✖と書くか、HelloにするかGoodbyにするか、あるいはもっと突拍子もないものにするかは人それぞれだろうが、ヨーコさんにとってはそれが「YES」だったわけで、そのようなヨーコさんにジョンはハートをキャッチされたのだろう。このように見てくるとオノ・ヨーコさんがそうだったように、小説も一つのメッセージなのだと思う。徹底的にNOを突きつけることででしか新たな希望は見えてこないという作家もいれば、途切れながらもYESは続くんだという作家もいる。人の業に対し最後には笑ってYESというのが古典落語なのかとも思う。それぞれに面白い。 笑いとメッセージと言えば私がこよなく愛するのが、小島よしおさんの「そんなの関係ねー!」だ。最近は子供に大うけだと聞いているがうなずける。子供はいつだってパンクだ。どうでもよい話だが、もしこれを英訳すると

Its   none   of   your   business  !  直訳(そんなの関係ねー!)

となるのだろうか?興味は尽きない(笑)。

PS.小島さん是非、海外進出を視野に入れてください。応援しています!

 

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相撲における八百長と北野武さんの発言に対して

 以前、北野武さんが相撲の八百長騒動の際に 「相撲における八百長は是か非か?」

という質問に対し、

「相撲は豊作を祝って奉納する儀式である。つまりスポーツではないのだから、八百長は非ではない。」

という趣旨の発言をされていた。北野さんのこの発言に対し、時間がかかったがやっと自分なりの答えが出た。以下に示したい。三段論法で説明すると

 

①「文明」が長続きするには「平和」であるに越したことはない。

②「平和」を持続させるためには「調和」が必要である。

③「調和」には「真剣勝負」はいらない

 

 つまり文明を長続きさせるためには「真剣勝負」は必要ないのである。裏返すと、平和な時と場所に暮らす人々は「真剣勝負」に飢えているともいえる。ローマ時代に剣闘奴隷がいたのも、現代社会で各種勝負事、フットボール、ボクシング、囲碁、将棋、チェス等々が盛んなのも、これら真剣勝負に飢えた人たちが、自身の満たされない思いを各々に託しているからではないだろうか?過去においても現代においても、いわゆる見世物としての勝負事のそれが存在意義なのではないか?であるならば、相撲がスポーツであれ、儀式であれ、肝心なのは

「相撲に想いを託す人がいるかどうか?」

ではないか?そこに想いを託している人がいるならスポーツであれ儀式であれ、その思いを裏切ってはならないと思う。そして相撲に想いを託す人は、いる。と思われる。 つまり八百長は非である。というのが私なりの結論だ。北野さんの意見を伺ってみたいところだ。ちなみに私は相撲に興味はない。だからどっちでもいい。

 NHKには申し訳ないが『笑点』のほうが大切だ。司会者も変わり、新たなメンバーも加わり、目が離せない。人を打ち負かすことよりも笑わせることのほうがよほど価値があると思うのも、恥ずかしながら事実だ。もっとも私自身は非常に口下手な人間ではあるが・・・(笑)

 

 

追記

 この文章は矛盾している。「平和」を持続させるためには「調和」が必要と述べている。にもかかわらず「北野武さん」という「権威」にアンチテーゼを示し、その意味で「調和」を乱しているからだ。

 自分でもこれは矛盾していると思った。そのままにしたのは、「調和」のみを重んじ、陽性の反骨精神をすべて排除してしまっては、社会から活力が失われてしまうのではないかと(偉そうにも)危惧したからだ。「調和」にばかり重きを置いていては、「平和」は保たれたとしても、社会は緩やかに衰退していってしまうのではないか?それが良い悪いは別として。社会が持続的に発展していくためには「保守」と「革新」の程よいバランスが必要だと思う。

 

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波田陽区

  「要するに、良心の呵責でしょ。」

 「ドストエフスキーの『罪と罰』読んだことある?」と尋ねた私に友人はさらりと答えた。「カッコイイなあ。」私は思わずうなった。『罪と罰』やら『カラマーゾフの兄弟』やらを読んだことがあると聞くと、それだけで何かすごい人のように思えてしまうから不思議だ。私も2度3度試みたがあまりの難解さに挫折して、結局は簡略化されたマンガ版を読んだきりだ。友人はそのドストエフスキー(19世紀ロシアの誇る文豪)を一刀両断した。まるで往年の波田陽区のように。

 だがちょっとまて、いったいドストエフスキーの小説の何がそんなにすごいのか?ドストエフスキー自身が非常に破天荒な人生を送った人だという話は聞いたことがある。だが作家と作品は別のものだし、そもそも小説とはエンターテインメントだ。であるならば読むことが楽しくなくては意味がない。読んでいてはっとさせられるような箇所があったり、登場人物に自身を重ね合わせたり、とにかく読むという行為が楽しくなければ意味がない。ところが私にとってドストエフスキーの小説はそうではなかった。楽しくないのだ。時代背景、社会背景に対する理解不足、読解力の不足。何よりも忍耐力の不足等々、私に問題があると言われればそれまでだ。訳者による違いもあるだろう。ロシア語の原典を読めたらまた違ったのかもしれないが、それは致し方ない。ただ、誤解を恐れずに言わせてもらうならば、勉強しないと読めない小説なんてどうかと思うのも確かだ。読んでいて勉強したいと思うのなら話は別だが。

 そもそも文章を書くのは、日記やメモを別とすれば、「伝える」という行為に他ならない。自分の思いを誰かに伝えたいというのが根底にあると思う。卑近な例ながら私だってそうだ。「届けこの想い」。これは作家に限らず表現者であるならば当然の事だと思う。特定の相手にのみ解ればいいのならそれは暗号でも恋文でも好きにしてほしい。ただ表現者であるのならば、できるだけ多くの人に伝えてなんぼのはずだ。であるならば難しい表現で難しいことを書くよりも、より優しい表現で難しいことを伝えるほうが、はるかに冴えているのではないだろうか。テーマの重い軽いは表現の難解さとはまた別の問題だ。友人の一言は私の中でドストエフスキーを相対化してくれた。

 と、さんざん講釈を垂れたうえで、読んでくださっている方々どうもありがとうございます。私のブログも今回で8回目になります。8回目にもなるといろいろな形で反響があります。

 

 中略

 

 また、多くの方々にお読みいただいておりますが、やはり一番の読者は両親のようです。最近面白い発見がありました。父親というのはいずれは超えてくものだけど、母親というのは生涯超えられない存在だということです。父親というのは私の文章を褒めもすれば、けなしもしますし、嫉妬もします。ところが母親というのはこうです。

「まあ、落語家なんかも、ちょっとした文章は書けちゃうもんだしね。」(彼女は今落語とそこにまつわる人間模様にはまっています。)

 一刀両断です。まるで波田陽区のように。まあ、この人の腹から出てきたと思えばそれも仕方ないかと妙に納得してしまいます。女性の持つこういった母性というか本能のようなものはすごいなと感じた次第です。もう少し早く気づいていたら(気づいていても認めたくないということもありますが)また別の人生もあったかもしれないとも思います。

 まあそんなわけで今回何を言いたいかというと私は波田陽区が好きだということです。先日『しくじり先生』というTV番組に出演しているのを久しぶりに見ました。今度は芸能人なんかきってないで、権威とかつまらない常識とかそういうものをきりまくってほしいです。頑張れ!波田陽区

 

波田陽区に切ってほしいものを3つ考えよう!

例:「たけちゃん、あなたのへその緒、波田陽区に切ってもらったのよ!」

例:「けい子、あの人への未練、波田陽区に切ってもらっちゃいなよ!」

 

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愛のままに、わががままに・・・

 大学を卒業して就職浪人していたころの話。

同じく就職できずに院に進んだ友人とドライブしていて、

仙台市内で一番大きな四つ角に停車した際の会話。

私「こいつはまさにヒューマンスクランブル!(『人間交差点弘兼憲史著より)。」

友人「僕らは今日も信号待ちさ。(笑)」

今思い返すとなんと親不孝なダメ学生だったか。親にはとても聞かせられない。

 ただ、この友人単なるダメ院生ではない。ドライブつながりで別の話もある。

 ある日、市内をドライブしていたら道端に花束が手向けられていた。

それを見た我々

私「自己満足だな。」

友人「事故だけにな。」

私「そうそうその通り!」

 自分でも無意識のうちに口をついた言葉に対し、

友人が間髪もおかずに返してきたので驚いた

「こいつの言語中枢はどうなっているんだ?」

 よく鼻歌を歌っているときに思いもよらぬ自身の心情に気付くときがある。

無意識のうちに脳の言語をつかさどる部位が働いているのだろう。

YUKI(元ジュディ&マリー)はメロディーに合わせて

「はなもげらー」と口ずさんでいるうちに歌詞ができる

と雑誌のインタビューで答えていたが・・・。

無意識と言語の関係はとても興味深い。

作曲家や作詞家の脳はどうなっているのだろう。

別の機会に考えたい。

 その後どういうわけか友人も私も他人を指導するような立場になった。

ある時、故あって、この友人とのやり取りを授業で話したことがある。

その際

「その花を見て私は『〇〇満足』と言ったんだ。それを聞いた友人は『まさに〇〇だけにな。』と言った。さて〇〇に入る同じ2文字は何だかわかる?」

周囲がきょとんとする中一人だけ「わかった!≪ジコ≫だー」と答えた生徒がいた。ある意味鋭すぎる言語センスだ。

鈍すぎるのもなんだが、鋭敏すぎると自らを傷つけることがある。

普通に幸せになって欲しい・・・。 

 今思うと十代の生徒たちに対して厳しすぎる認識を強いたかもしれない。

「人は死んでしまえばそれまでで、それに花を手向けるのは結局のところ残された者の自己満足にすぎない。」

真理を悟ったような気になっていた。なんと傲岸不遜な態度か。

ただあのころ我々は若かった。

というより幼かった。

あの時の事故の犠牲者と遺族の方々にはこの場を借りて心からお詫びいたします。

申し訳ございませんでした。

 それとは別に歴史の授業としては一つ疑問が残る。

「なぜ、いつごろから人は死者に花を手向けるようになったのか?」

それまでは死んだら終わりだった。泣いてもしょうがなかった。

しかしいつの頃からか残された者はそれに納得できなくて、

花を手向ける事で自分の気持ちにけりをつけたのだろう。

その意味で人は≪わがまま≫になった。

しかし、この≪わがままさ≫が人の人たる所以なのではないか?

もしかすると、

そのころ(およそ20万年前)≪ヒト≫は≪人≫になったのかもしれない。

そんなことを考えた。

あのころ友人も同じような事を考えていたのかもしれない。

でなければ ,

あんなにさらりと返せなかったろうから。・・・フカイ奴だ。

 

 ~愛のままに、わがままに、僕は君だけを傷つけない~ Bz稲葉浩志

 ※声に出して歌ってみよう!

 

 

 

 

俯瞰

 人生であれ、

人類全体の歴史であれ、

≪俯瞰≫してみることは面白い。

全体像をつかむことで、

当たり前だと思っていた物事を相対化できるからだ。

昔、歴史の授業で

『世界がもし100年の物語だったら』(リチャード・マクドナルド著)

という本を教材に用いたことがある。

「人類が何万年前に生まれたか」などという年号暗記なんかよりも、

まず一回目の授業で、

この≪俯瞰≫という視点に触れてほしかったからだ。

(ちなみにこの本では99年目の最後の1か月にヒトが誕生する)

どこまで意図が伝わったかはわからないが、

今になってみるといろんな意味で「良くも悪くも」だった。

≪俯瞰≫して全体像をつかむよりも、

目の前の事に疑念など挟まず、

全力投球する。

幸せってそういうものかもしれない、

と思える節があったからだ「良くも悪くも」。  

 とにかく時は流れて、

私はといえば、自身の感情の揺らぎすら≪俯瞰≫しているような毎日だ。

お世辞にも健全とは言えない。

 さて、前置きが長くなりましたがここまでこのブログをお読みいただいている方々、どうもありがとうございます。これまでに出てきた

『図書と見方と坊ちゃんと』

『              』

『革命』

の3つは今から十数年前、私が20代半ばに書いた文章に加筆修正したものです。

今読み返してみると、清々とした語り口で若々しいテーマの文章とも言えますし

(青い、青いな、青くせえにおいがプンプンするぜえ。

逆境ナイン第1巻より、島本和彦著』)

とも思います。

若干の照れは隠せません。

今後ミドルエイジを迎えるにあたり、

もう少し大人の文章を書ければなあともいます。

 それからブログを始めるにあたって書いた『矛盾』という短文。

こちらは本当になんとなく書いたのですが、

実にそのなんとなくが大切で、

三つ子の魂百までとも申しますし、

これが私の生涯のテーマなのかなとも思うのです。

作家にしろ芸術家にしろ科学者にしろ

一人の人間が生涯かけて追いかけられるテーマなんてそうそう多いものではありません。

私も今後いろいろなテーマについて文章を書いてみたいと思いますが、

結局はこの『矛盾』に収斂してくるような気がします。

とはいえ一方でパブロピカソのように90近くになっても

精力的に活動した芸術家もいるわけで、

私もパソコンとネット環境が整っている限りできるだけ長く、

多くのテーマに挑戦したいと思います。

また、その結果として又吉越えができれば言うことはありません(笑)。

ここまで読んでくださった皆さんには、ぜひ今後ともお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。

 

  

 目の見えない虫は、球の表面を這っているとき、自分が通ってきた道筋が曲がっていることに気づかない。わたしがそれを発見できたのは幸運だった。

                             (アインシュタイン

 

 目の見えない虫の気持ちは、目の見えない虫自身にもわからないのかもしれない、ただ彼の精神と身体が燃焼していたのならそれは生物として豊かなことだと思う。

                                                                                                           (諸田 亮)

 

 

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私的革命

 二千年以上昔の中国に次のような話がある。

「昔『混沌』という目も耳も鼻も口もない化け物がいた。

この『混沌』、ある時人助けをした御礼に目と耳と鼻と口を作ってもらった。

ところがそのとたんに死んでしまった。」

初めて読んだ当時高校生だった私は衝撃を受けた。

なぜ『混沌』は死んでしまったのか?

 目、耳、鼻、口、これらはすべて感覚器官である。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、それぞれが我々に多様な≪情報≫を伝えてくれる。

ではそもそも≪情報≫とは何か?

背が高い人がいる。

我々は何をもとに「背が高い」という≪情報≫を得ているのだろう。

仮に世界中の人がみな同じ身長だったとする。

その際「背が高い」という情報は成り立つだろうか?

否、みな同じ身長では高いも低いもない。

その人より背が低い人が全体の過半数以上いて初めて「背が高い」と判断しうる。

つまりそこに比べるべき対象があって初めて情報は≪情報≫たり得る。

この考えを突き詰めれば≪情報≫とはすなわち「比較」であり「差」であるといえる。

時としてそこには痛みが伴う。

「比較」とは優劣を明らかにすることでもあるからだ。

『混沌』が死んでしまったのはきっと≪この痛み≫に耐え切れなかったためだろう。

私はそんな風に理解した。

同時に≪この痛み≫から逃れるすべはないものか?そんな疑問を持った。

 大学に入り寺の息子とつるむようになった。

一度そいつの実家で、住職の親父さんと三人で飲んだことがある。

親父さんにこの話をしてみた。

「比較という考え方からは逃れられないのですか?」

「答えになってるかわからんが、

お釈迦さま知ってるか?

自分の妻子ほったらかしにして修行に出た困った人なんだけどさ。

この人はどういうこと言ったかというと、

とにかく欲から逃れたいって言ったんだ。

あらゆる欲からさ。

でも考えたら贅沢な話だろ。

すべての欲から逃れたいなんてさ。

それ自体が一番の欲だっての。」

 目から鱗だった。

お坊さんとは偉いなあと感服した。

このとき壁を超えたような気がした。

その壁は人生の要所要所で現れる、

そういうたぐいの壁だ。

苦も無くそれを乗り越える人もいれば、

私のように時間のかかる者もいる。

だが、いずれは自力で乗り越えねばならない。

でないと『混沌』のような結末になってしまうからだ。

手こずっている人はこの文章をてこにしてほしい。

役に立てれば幸いだ。

 後に友人から聞いたのだが、

ありがたい言葉をくださった親父さん、

財テクに余念がないそうだ。これだから面白い。

 

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『         』

 「一回宇宙に行ってみてえな。」

という私に対し

「ふん、宇宙には誰もいねえからな。」

というのが友人の返答だった。

 今までで一番イカシタ会話を挙げろと言われれば必ずこれが来るだろうし、

この先何年たってもやはりこれのような気がする。

残念なのは相手が男だったことだ。

私がこの会話を”イカシテル”と思うのは次のような理由からだ。

 2002年6月、サッカーワールドカップに日本中が熱狂した。

日本チームのプレイに国全体が一喜一憂し、

ある解説者の言葉を借りるならば「日本が一つ」になった。

日本代表を応援するという行為を通じて

我々は感情を共有したのである。

 人は感情を共有することが好きだ。

お気に入りのCDを薦めたり、

わざわざ映画館に足を運んでホラー映画を観たりするのはこのためだろう。

「怖い」という感情すら我々は共有したいのだ。

我々のDNAには

「感情を共有することへの欲求」

が書き込まれているのかもしれない。

 確かに「感情を共有する」のは素晴らしい。

個々人では得られない大きな力を我々は手にすることができる。

その喜びは言葉では表せない。

しかし良い事ばかりではない。    

 4年前1998年ののフランスワールドカップ、

3敗という結果で帰国した代表選手にサポーターがコップの水をあびせる

という出来事があった。

何が彼をあのような愚行に駆り立てたのだろう。

彼だけが日本代表の結果に不満を抱いていたのならばあんなことにはならなかった、

と私は思う。「みんなも自分と同じように感じている」という認識、

それが彼の中であのような行為を正当化させる

「感情的根拠」

になっていたのではないか。

でなければ言葉を交わしたこともない他人に対して

なぜあれほどの怒りを抱くことができるのか、

私にはわからない。

彼の行為もまた「感情の共有」のなせる業なのではないだろうか。

 人間には「感情を共有することへの根源的な欲求」がある。

ただしそれは喜びや笑いといった正の感情だけではない。

憎しみや、怒り、といった負の感情もまた我々は共有する。

歴史上、宗教に起因する戦争が残虐なのも、

社会に「スケープゴート」とか「いじめ」

という言葉が存在するのもこのためではないだろうか。

 思うに「感情の共有」とは劇薬なのだ。

効き目は大きいが、副作用もまた大きい。

用法と容量を間違えると困ったことになる。

きっとあのサポーターは使用上の注意をよく読まなかったのだろう。

もっともそんなものはじめからない。

自分に合った用法・用量を自分で見つけるしかないのだ。

ただ、飲みすぎには注意したい。

薬なんてたまに飲むからこそ効き目があるのだから。

 前置きが長くなったが、

今にして思えばあの時、

ごく短いフレーズの会話を通して私は友人と分かち合うことができたのだ、

「分かち合わないことの価値」を。

イカシタ会話”なわけである。

ちなみにこの友人は今”あのベッカムヘアー”にしているらしい。

ブームが去ったころにやるところと、

洒落た美容室でなく”なじみの床屋”で”なじみの親父”

に切ってもらったところがいかにも彼らしい。”イカシタ”男である。

 

※分かち合いたいもの、分かち合いたくないものについて家族会議で話し合ってみよう。

例 分かち合いたいもの(笑い、思い出)

例 分かち合いたくないもの(お父さんの歯ブラシ)

※この文章に題名をつけてみよう。

※「私」にとって友人はどのような存在でしょうか。「私」の気持ちになって考えてみよう。また、男女間に真の友情は成立するか?とことん考えてみよう!

 

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